観世音菩薩普門品第二十五⑥【はじめての法華経】vol.13
【はじめての法華経】は、私が法華経を少しずつ読んでいく過程を報告するコーナーです。
今回は『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品第二十五」⑥です。(①~⑤はこちら)
前回読んだ部分では、最も基本的な煩悩である「三毒」である「貪欲」(=むさぼり)、「瞋恚」(=いかり)、「愚痴」(=おろかさ)によって苦しんでいる人も、観世音菩薩をつつしみ深く敬って心に念じることによって救われる、と説かれました。
今回読む部分では、どのようなシチュエーションで、どのような人々が観世音菩薩によって救われるのでしょうか。
それでは読んでいきましょう。
若有女人。設欲求男。礼拜供養。観世音菩薩。便生福徳。智慧之男。
若し女人有て設い男を求めんと欲し、観世音菩薩を礼拝し供養せば、便ち福徳・智慧の男を生まん。
設欲求女。便生端正。有相之女。宿植徳本。衆人愛敬。
設い女を求めんと欲せば、便ち端正有相の女の宿徳本を植えて衆人に愛敬せらるるを生まん。
無尽意。観世音菩薩。有如是力。
無尽意、観世音菩薩は是の如き力有り。
若有衆生。恭敬礼拜。観世音菩薩。福不唐捐。
若し衆生有て観世音菩薩を恭敬礼拝せば、福唐捐ならじ。
是故衆生。皆応受持。観世音菩薩名号。
是の故に衆生、皆応に観世音菩薩の名号を受持すべし。
今回は、子どもが欲しいと思っている女性について書かれています。
まず、「男」というのは普通の男性ではなく、「男の子」という意味ですね。
もしある女性が、男の子が欲しいと思って観世音菩薩を礼拝し供養するならば、「福徳」と「智慧」をそなえた男の子を産むだろう、ということのようです。
「福徳」と「智慧」とは何なのか、調べてみると色々難しいことが書かれているんですけれども、概ね以下のような感じかなと思います。
福徳・・・善行を行うことで他者に利益(福)を与え、自らはそれによって徳を積む
智慧・・・悟りをひらくための智慧
一般的な価値観で言うなら、他者に幸せをもたらす人格者であり、思考力や判断力にも優れている、ということでしょうか。かなり頼もしい人物に育ちそうです。
次は、女の子が欲しい場合ですね。
まず、「端正有相」というのは、簡単に言えば「見た目が美しく整っている」ということですね。読み方は違いますが、「端正な顔立ち」と言うときの「端正」と同じ意味です。
次に「宿徳本を植えて」というのは、過去世において善行を行って徳を積んでいる、というような意味のようです。
そして、「衆人に愛敬せらるる」と続きます。「愛敬」は、「愛し敬うこと」ですから、ここでは「人々から愛され、大切にされる」ということでしょう。
つまり、この女の子は、過去世において善行を行って徳を積んだおかげで、現世においては人から愛され、大切にされる、ということのようです。
これは女性差別なのか…?
なんだか現代においては議論を呼びそうな内容ですが、みなさんはどう思われますか?
仏教のお経典における女性の扱われ方について、よく、「女性差別している」という批判があったり、反対に「男女平等を説いている」という主張があったりしますが、私は、「いま現在虐げられ苦しんでいる女性にとって、この議論がどれほどの意味を持つのだろうか」と考えることがあるんです。
今回読んだ部分についても、現代的な感覚でいけば、「女の子だからといって、美しい見た目が与えられることがよしとされるのは、ルッキズムであり女性差別なのではないか」という考えが一瞬頭をよぎりますけれども、それは現代に生きている人間だから言えることなのかもしれない、とも思います。
私は、この教えが説かれた時点において、親が娘の幸せのために求める最も良い条件が、これだったのではないかな、と思いました。
ですので、現代に生きる親御さんは、生まれてくる我が子の幸せのために、いま自分が考えうる最も良い条件を願えば良いのだと思います。
最後に、お釈迦さまはまた無尽意菩薩に語りかけます。
ひとつ、「唐捐」という聞き慣れない言葉があります。これは、「むなしく捨てられる」という意味なのだそうです。
「無尽意菩薩よ、観世音菩薩はこのような力を持っているのである。もし人が観世音菩薩をつつしみ深く敬い礼拝するならば、福はむなしく捨てられることなく、必ずその人にもたらされるだろう。だから、衆生は皆、観世音菩薩を信じ、その名を心に保ち続けるべきなのである」
こんな感じのことが書いてあるのかな、と思います。
◇◇◇
今回の記事は以上になります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。
それでは、また。