観世音菩薩普門品第二十五⑤【はじめての法華経】vol.12
【はじめての法華経】は、私が法華経を少しずつ読んでいく過程を報告するコーナーです。
今回は『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品第二十五」⑤です。(①~④はこちら)
前回読んだ部分では、捕らわれの身となって手かせ足かせをはめられてしまった時も、観世音菩薩の名をとなえれば手かせ足かせが壊れて逃げ出すことができ、また、たくさんの財宝を持った商人の一団が、おびただしい数の盗賊がはびこる場所を通らなければならないときも、観世音菩薩の名をとなえれば、難なく通過することができる、と説かれました。
今回読む部分では、どのようなシチュエーションで、観世音菩薩の名前をとなえた人が救われるのでしょうか。
それでは読んでいきましょう。
若有衆生。多於婬欲。常念恭敬。観世音菩薩。便得離欲。
若し衆生有て婬欲多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち欲を離るることを得ん。
若多瞋恚。常念恭敬。観世音菩薩。便得離瞋。
若し瞋恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋恚を離るることを得ん。
若多愚痴。常念恭敬。観世音菩薩。便得離痴。
若し愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴を離るることを得ん。
無尽意。観世音菩薩。有如是等。大威神力。多所饒益。是故衆生。常応心念。
無尽意、観世音菩薩は是の如き等の大威神力有て、饒益する所多し。是の故に衆生常に心に念ずべし。
まず、言葉の確認をしましょう。
「婬欲」というのは、「淫欲」とも書きますが、単に性欲を指す場合もありますが、ここでは「貪欲」のことを指すようです。
仏教の教えで、基本的な3つの煩悩を「三毒」と呼びます。その3つとは、「貪欲」(=むさぼり)、「瞋恚」(=いかり)、「愚痴」(=おろかさ)です。「貪・瞋・痴」と略して言ったりもします。
「貪欲」(=むさぼり)は、性欲に限らず、たとえば食べ物やお金、名誉などに対するむさぼりの心が含まれます。しかし、そのなかでも特に性欲の力が強いので、貪欲のことを婬欲(淫欲)とも呼ぶのかもしれませんね。
次に、「常に念じて観世音菩薩を恭敬せば」とありますが、これまでは観世音菩薩の名前をとなえる、ということが条件だったのに、ここでは心のなかで念じるだけでも良いとなっていますね。
これなら、声が出せない人や、状況的に声が出せない場合でも、安心ですね。
「恭敬」というのは「つつしみうやまうこと」を指します。
これらのことを総合すると、むさぼりの心が強くて苦しんでいる人でも、心のなかに観世音菩薩を念じてつつしみ深く敬えば、むさぼりの心から離れることができる、ということですね。
次に、「瞋恚」(=いかり)についてです。「瞋恚」は火にたとえられ、「瞋恚の炎」という表現もされるようです。何もかも焼き尽くしてしまうまで止まらないのが、「いかり」なのかもしれません。
このような「いかり」を抱えて苦しんでいても、心のなかに観世音菩薩を念じてつつしみ深く敬えば、「いかり」から離れることができる、と説かれています。
最後に、「愚痴」(=おろかさ)が出てきました。「愚痴をこぼす」のように、現代の日常生活のなかでも使われている言葉ですね。ここでは、仏の教えを知らず、物事の道理がわからずに間違った判断をし、思い悩むことを言います。
このような「おろかさ」を抱えていても、心のなかに観世音菩薩を念じてつつしみ深く敬えば、この「おろかさ」から離れることができる、と説かれています。観世音菩薩を心に念じることによって、仏の教えを知り理解する、というご縁が生まれるのかもしれません。
ここで、お釈迦さまが無尽意菩薩に対して、語りかけています。
「饒益」というのは、「衆生に対してゆたかな利益を与える」という意味です。
観世音菩薩の力はこのように偉大で、衆生に対してゆたかな利益を与えるので、衆生は常に心に観世音菩薩のことを念じるべきなのである、という感じでしょうか。
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今回の記事は以上になります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。
それでは、また。