覚書:「女のいない男たち」
”…全ての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡海の個人的見解だった。どんな嘘をどこでどのようにつくのか、それは人によって少しずつ違う。しかし全ての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なところで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、一番大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。だからこそ嘘をつくことによって、彼女たちの美しい良心が痛んだり、彼女たちの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは、-特殊な例外をべつにすれば-まず起こらない。…”
正直に白状すると、僕は女性と言いうものに生き物に対して圧倒的な劣等感を抱いている。
日々それを感じているわけではないけれど、僕が世界を認識するとき、所与のものとして当たり前のようにレイヤーに組み込まれている。
基本的にぼくは、あまり迷ったりすることはないのだけれど、なにか大事な局面において、女性、意見の相違があったりすると、(それが自分にとって近しい人であればあるほど)途端に自信を失ったりしてしまう。
この物語を読んで、それはあまりにも遠すぎて想像がつかないからなのかもしれない、と思った。
僕にとって女性は、想像する手がかりというものが全くない存在だ。
日々接したり会話をすることはあるけれど、彼女たちがなにを感じ、なにを考えているのかが伺い知ることができない。
これはは僕自身が、男性のことなら手に取るようにわかる、と言うことを意味しているわけではない。
でも、彼らについては自分を起点にすることで想像する緒とすることができる。そこからすこしづつ手繰り寄せていくことができる。
女性に関して、僕にその緒がないのだ。
そういう意味で、ぼくは主人公たちになんの感情も抱かなかった。
彼らも多かれ少なかれ、そのわからなさを感じているように見えたから。
書かれているものがあまりに自身の感覚に似通っていると、なんの刺激もなくすんなりと落ちていってしまう。
或いは誰もがこの物語を読んだ時に、自分自身を発見する、そう感じさせるのがこの作品の魅力なのかもしれないけれど。
そして、それらの感覚があまりに強く似ていると、書かれていることが自分の行先やこの先起こることのような気さえしてしまう。
僕にとって、不可視のはずの未来へ続く道を一瞬だけ見せつけられたような、それでいてなぜか安心して諦められるような、そして僕自身をうっすらと縛り付けるような、そんな物語たちです。
ほんや徒歩5分店主
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