覚書:「デザインの輪郭」
”「ふつうに思ったことを淡々とやっていればいいんだ」とわかったから強くなったのではないかと思います。
僕も、かつてはふつうじゃないものをつくろうとしていたわけですね。
デザイナーというのはそういうものだと思っていたから。
特殊なものをつくろうとしたときに、
「やっぱりふつうのものがいいな」と思って、開き直った。
いろいろな製品なり、デザインを自分なりに評価してみて、
こぼれ落ちていく砂の中で最後に残るものってわずかでしょ。
それが、最もふつうで、いいものというか…。
単純で、ふつうで、あまり人に刺激を与えないものがいいんじゃないか、ということがわかってきた。
だから、僕はそこをやります。
えー、と思わせるような強さをなくすことの方がすごいと思う。
わっと驚かせることよりもはるかに強い。それが難しい。
だってみんなふつうを期待していないわけだから。
ふつうにするには勇気がいります。
ふつうだと途中で消えてしまう可能性がある。
触られない可能性もある。
だから製品化することが重要です。
製品化しておけば、ふつうに戻っていくんですよ。
最初はインパクトはないかもしれない。
だから、まずみんながざくっとすくった手の中に入れないといけない。
すーっと落ちていく状態を待っていて、
最後に残ったときのことを自分は確信していなければいけない。
残ったものがふつうです。
よく自分で自分のものを評価するとき、
そう、落ちていく砂をじーっと見ていて、それを頭の中で検証しながら、ひっかかりながら「ああ、残ってきた、残ってきた」って。
その逆回しをしながらデザインする。
わーっと最初にすくったときに、
輝いていないといけないと思って仕舞うから、
だから、すごくがんばっちゃうんじゃないですか。
でも、それはすぐ落ちる。
「ふつう」というのは、椅子が椅子であり、
テーブルはテーブルであるということです。
その人が思い描いているアイコンを裏切らないということです。
本当はふつうだけだと、やっぱり輝かないんです。
それだけではいけない。
そんな中に光をもっていないと。
そういうところがあるんです。
表面的ではない価値を日本人は好きなんですね。”
ぼくが初めて深澤直人さんが手がけたものに出会ったのは、小学校6年の頃、場所はS-PAL2の一階にある無印良品だった。(今もあるのかな?)
壁掛け式のCDプレイヤー。
例えるならば、換気扇。
換気扇のようにひもが垂れていて、引くと換気扇の羽根のようにCDが回り、音楽が流れる。
その無駄のないたたずまいと、風のように音楽が流れてくる様に、「あ、いい」と思った。
大学生になり原研哉さんの「デザインのデザイン」に出会い、それが深澤直人さんが手がけたものだと偶然知った。
そして、この本にたどり着いた。
小学生のころの感覚が、ここに連れてきてくれたわけだ。
改めて読んでみて、ぼくの思考はこの本に大きな影響を受けていることに気づいた。
例えば、ある絵画の見方。
この人の考え方とモネの睡蓮が結びついていた。
「輪郭」とか「存在する」という文脈においてだ。
いつだったか、モネの睡蓮をみていたときに、
「モネは晩年目が少しずつ見えなくなっていたけれど、そのなかで見えはじめたものがあった。
それは存在の不確かさ、輪郭の不確かさが「見えて」いたのではないか。
それが、こうした表現につながっているのかもしれない…。」
みたいなことを考えていたのだけれど、これはこの本に依る部分が大きい気がする。
この本では、輪郭を相互的な圧力の「見え」と表現している。
それを前提とし、「そうだとすると輪郭は絶えず動いているのかもしれない」という想像が、先ほどのモネの睡蓮の見方につながっている。のかもしれない。
そうだとすればこの本はぼくのなかで、気付かないうちに文脈を作ってたことになる。
どんな本もそうなのかもしれないけれど。
ぼくは、デザインという言葉をイマイチ信用できないでいる。
デザインだと宣言すれば、すべてがデザインになってしまえるような広さがわからなすぎるからからかもしれない。
それでも、この本に限らず、一般的にデザイナーと呼ばれる人が書いている本がたまに読みたくなるときがある。
別にデザインのことを知りたいわけでもないし、その技法を知りたいわけでは、もちろんない。
ぼくの印象で、かれらは、彼らなりの世界を見る視点を持っている人たちだ。
それらをプロダクトに落とし込めるよう、自分自身の理解の方法の源を探り続けている人たちだ。
徹底したそれらの思考の軌跡は、自分に新しい世界の見方を提供してくれる感覚がある。
だから、なにか自分が硬直してしまっている感覚があるとき、開きたくなる。
いくつかある、そうした本の中でも「デザインの輪郭」は、ぼく自身が根源的に「いいな」と感じる生き方に通じる視点が確かにある。
小学生のころに、直感で「いい」と感じたモノを、意図を持って作った方の著作であれば、それもまた必然なのかもしれない。
最後に触れておきたいのはこの本は、モノとして美しいということだ。
細かい知識などは持ち合わせていないけれど、その装丁やページの開き方、紙の質感まで。丁寧に作られていることを感じる。
読まなくても、触りたくなるような本だ。
ほんや徒歩5分店主
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