『量子力学と私』 – 日めくり文庫本【3月】
【3月31日】
気がつくと私は、何かの裁判を傍聴しているようです。法定はよく写真などで見たように、正面に判事長が威儀を正して坐っており、中央の被告席には何の犯罪かよくわからないけれども、何かの犯行をおかしたらしい被告が神妙にひかえています。今尋問をしているのは検察官らしく、犯行の模様をいちいち念をおすように聞きただしているのです。
私は、いつのまにこんなところにやってきたのでありましょう。それをいぶかりながらも、これは何か面白い事件らしいぞと思いながら、一生懸命に聞き耳をたてていました。検察官はさらに尋問をつづけました。
検「その部屋には二つの窓が前庭にむいて並んでいる。被告はそのどちらの窓から侵入したのか。この点は非常に重要なことだから、はっきりと答弁してほしい」
これに対する被告の答は、はなはだ奇想天外なものでありました。
被「私は二つの窓の両方を一緒に通って室内に入ったのです」
私はこの答えにあっけにとられました。一体、一人の被告が二つの窓の両方を一緒に通るなどということが可能でしょうか。検察官もこの理論を無視した答に少なからず心証を害したようです。
検「被告は二つの窓の両方を一緒に通ったと予審においても一度ならず主張していたが、ここでまたそれをいいはろうとするのか、そのような奇妙なことをいいはっても誰がそれを信ずるであろう。被告ははっきりとした不可分の一個体であって、未だかつて被告が同時に二つの異なる場所にいたなどという奇妙な状況におめにかかったものはない。しかもこのことは被告自身すでに認めたことである。なぜなら被告はさきほど門衛のところにいたから室内にはなかったと称してアリバイを主張したではないか。被告が主張するように二つの窓の両方を一緒に通ることが出来るくらいなら、被告は門のところと室内の両方に一緒にいることも出来たはずである。それとも被告はこのアリバイの主張を引き込めるつもりか」
なるほど、門のところにいたから室内にいなかったと被告が主張する以上、一方の窓を通ったなら他方の窓を通らないということを認めねばなりますまい。それだのに被告は両方一緒に通ったというのです。さすがに検察官だ、被告のすきを鋭くついたものだと私は感心しました。ところが、倫理の矛盾をつかれてあわてると思った被告は少しも動じません。
被「そうおっしゃっても私は二つの窓の両方を一緒に通って部屋に入ったのです。しかも私は前のアリバイを引込めるつもりもありません」
「光子の裁判」より
——朝永振一郎『量子力学と私 』(岩波文庫,1997年)286 – 288ページ
量子力学のダブルスリット実験の不思議を、法廷劇の形を借りてスリリングに読める朝永振一郎による解説。
「二つの窓の両方を一緒に通って部屋に入った」という被告・波乃光子の供述は本当なのか?
/三郎左