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『贈与論』 – 日めくり文庫本【5月】

【5月10日】

 人間を『エコノミック・アニマル』に仕立てたのは、きわめて最近のわたしたち西洋の諸社会である。けれども、そのわたしたちといえども、まだ全員がこの種の生き物であるわけでない。西洋の諸社会では、大衆にあってもエリートにあっても、純粋な消費のための消費、不合理な消費というものが日常的におこなわれているし、それはまた、西洋の貴族層が現在に伝える遺風のいくつかをいまだに特徴づけてもいる。ホモ・エコノミクス(homo oeconomicus)とは、わたしたちがすでに通り過ぎた地点ではなく、わたしたちの前に控える地点なのだ。倫理と義務の人がそうであるように。また、科学と理性の人もそうであるように。人間はじつに長いあいだホモ・エコノミクスなどではなかった。人間が機械になったのは、それも、計算機なぞという厄介なものを備えた機械になったのは、ごく最近のことなのだ。
 もっとも、わたしたちは幸いなことに、このようにいつでも冷酷に功利的な計算ばかりをおこなうという状態から、今のところはほど遠いところにいる。わたしたち中産階級の西洋人がどのように消費し、どのように出費しているのか、たとえばアルヴァックス(Halbwachs)氏が労働者階級についておこなったのと同じように、統計学的な徹底した分析をおこなってみればよい。どれだけの欲求をわたしたちは満たしているのだろうか。また、功利性を最終目的としないさまざまな性向のうち、わたしたちが満足させていないものがどれほどあるのだろうか。それに対して富裕な者は、自分の所得のうちのいかほどを個人的な功利追求のために現にあてがっているのか、また、あてがうことができるのか。富裕な者は奢侈品を買うために出費するし、芸術を享受するために出費もすれば、無分別に常軌を逸した出費もするし、使用人たちを雇うために出費もする。こうした出費の仕方を見ると、富者にはかつての貴族たちや、本論がその慣習について記述してきた未開社会の首長たちと、どこか似通ったところがないだろうか。

「第四章 結論
二 経済社会学ならびに政治経済学上の結論
より

——マルセル・モース『贈与論』(岩波文庫,2014年)431 – 432ページ


「贈与」型社会に潜んでいる契約も、「経済」型社会で見せられる暴力も、乗り越えられるとしたらどんな社会になるんでしょう?
「いいとこ取り」では得られない、何か「回復させる」ものが必要な気がしています。

/三郎左

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