『銀座アルプス』 – 日めくり文庫本【10月】
【10月1日】
ベルリンの下宿はノーレンドルフの辻に近いガイスベルク街にあって、年老いた主婦は陸軍将官の未亡人であった。ひどく威張った婆さんであったが珈琲はよい珈琲をのませてくれた。ここの二階で毎朝寝巻のままで窓前に聳ゆるガスアンシュタルトの円塔を眺めながら婢のヘルミーナの持ってくる熱いコーヒーを飲み香ばしいシュニッペルを齧った。一般にベルリンのコーヒーとパンは周知のごとくうまいものである。九時、十時あるいは十一時から始まる大学の講義を聞きにウンテル・デン・リンデン近くまで電車で出かける。昼前の講義が了って近所で食事をするのであるが、朝食が少量で昼飯がおそく、またドイツ人のように昼前の「おやつ」をしない我らにはかなり空腹であるところへ相当多量な昼食をしたあとは必然の結果として重い眠気が襲来する。四時から再び始まる講義までの二、三時間を下宿に帰ろうとすれば電車で空費する時間が大部分になるので、ほど近いいろいろの美術館を丹念に見物したり、旧ベルリンの古めかしい街区のことさらに陋巷を求めて彷徨したり、ティアガルテンの樹立ちを縫うてみたり、またフリードリヒ街や、ライプチヒ街の飾窓を覗込んでは「ベルリンのギンブラ」をするほかはなかった。それでも潰しきれない時間をカフェーやコンディトライの大理石の卓子の前に過ごし、新聞でも見ながら「ミット」や「オーネ」のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着するのが常習になってしまった。
ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物懶くて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の慢性的郷愁と混合して一種特別な眠気となって額を圧えつけるのであった。この眠気を追払うためには実際この一杯のコーヒーが自分にはむしろはなはだ必要であったのである。三時か四時ごろのカフェーにはまだ吸血鬼の粉黛の香もなく森閑としてどうかするとねずみが出るくらいであった。コンディトライには家庭的な婦人の客が大多数でほがらかに賑やかなソプラノやアルトの囀りが聞かれた。
国々を旅行する間にもこの習慣を持って歩いた。スカンディナヴィアの田舎には恐ろしく頑丈で分厚で叩きつけても割れそうもない珈琲茶碗にしばしば出会った。そうして茶碗の縁の厚みでコーヒーの味覚に差違を感ずるという興味ある事実を体験した。ロシア人の発音するコーフイが日本流によく似ている事を知った。昔のペテルブルグ一流のカフェーの菓子はなかなかに贅沢でうまいものであった。こんな事からもこの国の社会層の深さが計られるような気がした。自分の出遇った限りのロンドンのコーヒーは多くはまずかった。大概の場合はABCやライオンの民衆的なる紅茶で我慢するほかはなかった。英国人が常識的健全なのは紅茶ばかりのんでそうして原始的なるビフステキを食うせいだと論ずる人もあるが、実際プロイセン辺りのぴりぴりした神経は事によるとうまい珈琲の産物かもしれない。パリの朝食のコーヒーとあの棍棒を輪切りにしたパンは周知の美味である。ギャルソンのステファンが、「ヴォアラー・ムシウ」といって小卓にのせて行く朝食は一日中の大なる楽しみであったことを思い出す。マデレーヌの近くの一流のカフェーで飲んだコーヒーの雫が凝結して茶碗と皿とを吸着けてしまって、一緒に持上げられたのに驚いた記憶もある。
「珈琲哲学序説」より
——寺田寅彦『銀座アルプス』(角川ソフィア文庫,2020年)315 – 318ページ
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