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『イサム・ノグチ 宿命の越境者』 – 日めくり文庫本【11月】

【11月17日】

 イサムがパリにいる間に、野口英世は長年研究に取り組んできた黄熱病ウイルスに感染、ガーナで急死した。伊藤道郎もイサムがニューヨークに帰っっときには、ロサンゼルスにダンス・スタジオを移していた。フラーは、ブランクーシの影響下から必死に脱出を図ろうとしていたイサムにとって、これ以上ないダイミングで登場した新たな「メンター」であった。イサムには次の言葉がある。
《子というものは、親に反逆しなくてはならない。反逆してはじめて、親を越えていくことができる。ぼくの場合は育った状況下から父親を憎んでいたため、それが容易にできた。むろんブランクーシを憎んでいたわけではない。だがブランクーシから自由にならねばならないのを、ぼくは本能的に知っていた》
 十代のときに出会ったエドワード・A・ラムリーにはじまり、イサムは人生の各節目で、的確な助言で導いてくれる「メンター」にめぐまれた。自分にとってかけがえのない「メンター」を、イサムは本能的にかぎわける抜群の嗅覚をもっていた。父親不在の育ちだけに、相手の胸に飛びこみやすかったといえよう。
 イサムはフラーを《生涯の師にして親友》とよんだ。フラーとの交友は、フラーの死まで、約半世紀におよぶものとなる。
 イサムがフラーに魅了されたのは、フラーのいつも斬新な思考だけではない。フラーのアイデンティティの確実さもあったと思う。フラーにはおのれのアイデンティティに関し、疑問符のつく余地がなかった。フラーはその点で両極端といえるほどイサムと異なった。フラーはイサムにとって、アメリカを具現化したような人物であった。
 フラーは、はじめて会ったころイサムがよく〈彼の眼に映ったいろんな国の土着の人々への羨望を口にした〉と回顧している。
〈すべての人間と同様、できうれば一つの強力な文化に、さもなければせめてある社会グループに、同胞としてしっかりと「所属」することに、ノグチは深い憧れを抱いていた〉
 イサムのこの切なる帰属願望を理解するとともに、フラーは次のようにも見抜く。
〈その憧れにもかかわらず、ノグチが汎混血共同世界の根っからの一員であるという宿命から逃れることは、生物学的にも知的にも、明らかに不可能だった。ヨーロッパ人、アジア人、アメリカ人というはるかに隔たった遺伝因子が、ノグチの血のなかに複雑に融合しており、それは定住を求めようとする彼の意識的衝動に反動するものなのだ〉(『ある彫刻家の世界』序文)
 イサムの生涯は、フラーのこの見解を検証するための長い旅となる。

「第二章 オーフ・アメリカン・ボーイ Ⅴ 東洋への巡礼」より

——ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者(上)』(講談社文庫,2003年)285 – 287ページ


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