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『ゴッホの手紙』 – 日めくり文庫本【10月】

【10月23日】

 て、ゴッホとゴーガンとの間に起ったあの周知の不幸な事件に触れねばならぬ時になった。
 このアルルに於けるゴッホの最初の激しい発作についての記述は、ゴッホの側には明瞭な記憶が欠けていたから、彼の手紙の中に求める事件が出来ないが、幸いにして、ゴーガンは、この異常な経験についてまことに鮮明な手記を遺している。ボンゲル夫人は、これをあまり信用していない様だ。真実と嘘との混合だ、と言っている。恐らく残酷な観察と容赦ない判断とを含み、強い個性の露出したこの文章は、彼女のゴッホに対する満腔の同情心を傷つけたであろうと思われる。
 ゴッホが自殺した年、遺作展覧会の開催に、テオドルと一緒に尽力したベルナールも、この時のゴーガンの全く冷淡な態度に憤慨している。併し、当時のゴーガンにしてみればヨオロッパに別れをつげて、南海の孤島に去ろうと決意していたのであり、一狂人の展覧会などに興味を持っていた筈がない。事実、又、「狂人の展覧会」とはベルナールを怒らしたゴーガン自身の言葉であったが、彼も亦尋常な画家の生活が不可能な様に生まれついた人間であった。海員となって諸国を放浪して青年時代を送った後、銀行や株式取引所に関係し、安穏な家庭生活に入ったが、突然、画家たらんとする不思議な渇望が彼を捕えた。彼は財産と妻子とを捨てて、看板絵かきとなってパリをうろつき出した。彼も亦ゴッホの如く、古い人間の物語を焼き尽くしたアンプレッショニスムの火の中に、新しい人間の意味を奪還しようとした狂おしい精神であった。ゴッホを惹きつけたアルルの太陽は、ゴーガンで太陽州オセアニイの海であった。ゴッホの献身的な画家生活は、遂に現代生活とは全く隔絶した精神病院の裡に行われるに至ったが、タヒチやマルキイズの島々は、ゴーガンが自ら孤立した死所として設計した隔離室であった。彼の書簡集も、やはり雄々しいが痛ましい告白文学であって、自殺の考えは屢々しばしば彼を見舞っている。彼は遂に決行したが、ゴッホの様に成功しなかっただけである。
「四メートル半の大作を、狂人の様になって、一と月で描き上げたばかりだ。書き込まれた伝説は《私達は何処から来たか》《私達は何か》《私達は何処へ行くか》、絵が物語を説明すると信ずる——僕は大成期に這入ったのか。或はそう呼ばせるものは、私の非常の苦痛か」
「この大作は、仕上げの点では、甚だ不完全である。準備も研究もなしで、一と月でやってのけた。実は僕は死にたいと思っていたのだ。絶望状態のなかで、一気呵成に仕上げて、大急ぎで著名した。それから、かなりの分量の砒素ひそを飲んだ。きっと分量が過ぎたに違いない。ひどく苦しんだが、死は来なかった。それからというもの、僕の骨は痛む」。これは一九八九年及び一九〇一年のシャルル・モオリス宛のゴーガンの書簡よりの引用である。彼は翌々年に死んだ。こういう人のゴッホに関する手記が私情によって曇っているとは信じ難いのである。

「ゴッホの手紙」より

——小林秀雄『ゴッホの手紙』(新潮文庫,2020年)106 – 108ページ


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