発想とは与えられるもの
発想が頭に落ちてくる
発想とは、自分で思いつくものというよりは、周りから与えられるものではないかと思う。普段わたしたちが外界から受け取り続けている情報や、他者との交流、日常の小さな出来事によって、発想が生まれる。そして私の場合は、大抵その発想は論理的に考え抜いて生まれるというよりは、ポッと頭の中に落とされたように浮かんでくる。
最近与えられた発想について
ある企業のインターンに応募する際、自分が変える必要があると感じている社会問題と、その解決のためにできることを自由に書くという課題があった。その時私が取り上げたテーマは、日本社会に存在する格差や差別で、解決策としては格差を可視化する人生ゲームを提案した。
人生ゲームが始まる前に全員がカードを引き、家庭の所得水準や人種、性別が決められる。そしてそれらの条件によって、使えるルーレットも、最初の所持金も、とまることのできるマスも変わってくるという人生ゲームである。このような人生ゲームを作るというアイデアは、以下の5つの要素から与えられた。
①自分自身の被災経験や、女性として嫌な思いをした経験。貧困家庭で育った友人たちの経験。
そもそも私が日本にある格差や差別を取り上げたいと思ったのは、自分自身でコントロールできない原因による生きづらさを、日本社会において実感したことが何度もあったからだ。私は中学校1年生の時に東日本大震災で被災して、家を失った。その時に感じたことは、弱っている人にやさしくない社会の目だった。自分は立ち止まっていても、社会は決して待ってくれない。
それから、女性として生きているために嫌な思いをした経験も沢山あった。バイト先でセクハラを受けたり、それが社会で当たり前だから慣れろと言われたり。でも、大抵日本はセクハラや性的暴力を女性の服装、行動のせいにする。伊藤詩織さんが声をあげた時もそうだった。日本は女性にとって生きづらい社会だと思う。
私の友人の経験からも、日本の様々な格差や差別、その被害者になっている人への寛容性のなさを実感させられた。私の何人かの友人は学費が払えなくて大学を退学しなければいけなかったし、他の何人かは見た目が「外国人っぽい」という理由だけで、ずっと日本に暮らしているのにも関わらず差別を受けてきた。でもそういう問題を抱える人たちにも、日本社会は手を差し伸べてはくれない。
②大学で受講した日本の子どもの貧困に関する授業
以前、大学で受講していた輪講形式の授業で、日本の子どもの貧困がテーマの週があった。教授は、貧困問題が親子で連鎖していくことを沢山のデーターを用いて証明していた。でも、学生のリアクションペーパーに書いてあったのは「でもやっぱり日本に貧困なんてないと思う。」「運だからしょうがない。」というコメント。私は正直これらの言葉にガッカリしたけど、彼らを責めることもできないと思った。
それは、貧困家庭に生まれて努力してもどうにもならなくて退学した友人に出会うまでは、自分自身も似たような思考を持っていたと思うから。自分が良い成績をとれた時、留学して良い経験を得られた時、お金を出して塾に通わせてくれたり、海外に小さい頃から連れて行って興味を広げてくれたりした親の助けを棚に上げて、全部自分の努力の結果だと思ってた。だから、私はその時実感した。社会問題なんて、経験した人にしか分からないし、それを経験していない人、特に高い階級で生きてきた人に理解してというのは結構無理がある。
③オンライン子ども会の経験
私は最近小学校が封鎖されていた時期に、親戚の子どものためにプチ子ども会を企画していた。コロナで何もできずに退屈している子どもたちにとって、そして働いていて彼らのサポートが難しい親たちにとって、少しでも支えになれたらという思いで、週一回のZOOM子ども会を始めた。
ゲームをするだけではもったいないと思ったので、毎回テーマを決めて貧困問題や環境問題、異文化理解について話した。その時に気をつけていたのは、子どもでも興味を持ちやすい伝え方をすること。クイズ形式で、楽しく過ごしてもらえるように意識していた。
④子どもの頃に大好きだった人生ゲーム
私は人生ゲームが大好きで、いつも妹と一緒に、「人生ゲームがしたい!」と家族にせがんでいた。そして大きくなってからも、何度か人生ゲームを友人とした経験がある。他の子ども向けのゲームやおもちゃに比べて、比較的どんな年代でも楽しめるのが人生ゲームだと思う。
⑤友人との黒人差別問題に関する会話
ある日友人と電話をしていて、今世界中で問題になっている黒人差別問題について意見共有をした。彼女はその時に、授業で見せられたある動画について話してくれた。色々な人たちがスタートラインに一緒に立っていて、かけっこをするという動画。でも、そのかけっこは普通のかけっこじゃない。最初に「黒人系の場合は一歩下がる」「女性の場合は一歩下がる」といったように、多様な条件でスタート地点が変化する。そして当然、最初に一歩も下がる必要のなかった人たちが勝つことになる。
なんの関連もない話が、ずらずら並んでいると感じた人もいるかもしれない。しかし、これらのうちどれか一つでも欠けたら、私は格差を可視化する人生ゲームなんて思いつかなかっただろう。
発想が落ちてくる日常の瞬間
このような経験からも、最初に書いたように、発想というのは自分で考え出すのではなく与えられるものだと思う。私の場合、大抵発想が浮かぶのは日常のなんでもない瞬間で、意識して考えようとして発想を得ることはない。
人生ゲームの例は、インターンの課題で指定されて考えなければいけなかったのだから、意識して考えようとして考えた結果ではないかと言われてしまうかもしれない。でも私はそうは思わない。インターンで課題が与えられたこと自体も、与えられたきっかけに過ぎないからだ。上記の5つの要素が全てそろっていても、私はこのインターンの応募用紙に出会っていなければ、格差を可視化する人生ゲームのことなんて1ミリも考えなかったと思う。
だから、発想が落ちてくる瞬間はいつも日常の何でもないタイミングで、良い発想を考えようと座って頭をひねったからといって、それが得られるわけではない。人生で積み重ねた色々な経験、わたしたちを取り囲むメディアの情報、SNSで目にした一見なんでもない広告、友人とした会話の中の一言、日常で投げかけられる課題、これらがタイミングよく重なり組み合わさった時に、良い発想が与えられるのではないだろうか。
ということは、良い発想を得るためには、日ごろから色々な経験をし、色々なことを考え、色々な人と関わり、色々なテーマに問題意識を持って生活することが、地道で時間はかかるけれど、唯一の方法なのかもしれない。