カオスと神秘
すごく好きな歌人が、
突然SNS投稿をすべて消した。
それ自体に驚いてはいなくて、そもそもSNSの世界で言葉を紡いでいること自体、ほんとうは肌に合わないのかも、と思うほどに、言葉に対する愛(哀)が激しい人だった。
つい最近、はじめて本を出して、装丁含めてとても味のある一冊だった。悲しみは、研磨されると幸福らしきものになる。彼(彼女)の歌を読んでいると、それをまざまざと感じる。
雨上がりの景色がとても尊いものに思えるように、涙を何度も流して、身体中傷だらけになって、ふと空を見上げた時に、ああなんて、幸せなんだと、感じさせられる瞬間がきっとあるのだと思う。
私には、そうやって想像することしかできない。同じ温度の幸せや悲しみを経験したことがないから。でも、その涙や傷が言葉になって生まれた歌は、ほんとうに美しくて官能的に思う。
官能的といえば最近、スクリャービンという作曲家が気になっている。彼の曲はなんとも言い難い、それこそ官能的なニュアンスを秘めている。調べてみると、スクリャービンの紡ぐ音は”神秘和音”とも呼ばれているのだとか。そうなのよね、神秘としか表現のしようがない。どんな宗教音楽よりも、儚くて、天国に近いメロディに感じる。
作曲家って、浮気症がけっこう多い。かの有名なクロード・ドビュッシーもそうだ。彼の「喜びの島」という曲がすごく好き。心の地下深くからゆっくりと静かにこみ上げてくる多幸感。さいごにはそれが歌となって、地響きとなって、こだまする。
ひとつひとつの旋律が、和音の響きが、味わい深いものなのだが、あの曲はドビュッシーが、愛人を思って作った曲なのだ。愛人とのバカンスが楽しすぎて、ひゃっほーう!!!ってなってる時の曲。
スクリャービンも例によって、けっこう浮気性だったみたい。自分の弟子と不倫関係になったらしく、はたから見ればカオスな状況でよくそんな神秘的なメロディを書けるね、と思う。
きっと、カオスだったからこそ、な部分はある。きれいなだけの世界で細胞レベルでの感動や共鳴は生まれない。彼らの曲からにじみ出る神秘や官能的な余韻は、女性への愛情・興奮・欲がなんらかのスパイスとなっているはず。ね、皮肉だよね。悔しいけど、やっぱりいい曲なのだ。無抵抗に身体の中へ浸透していく、水みたいな旋律を書きやがるのだ。
最近はもう、浮気ひとつでSNSが大火事騒ぎみたいにうるさくなる時代だから、この人はすごいなって思うアーティストも、いわゆるスキャンダルを起こして袋叩きにあい、煙のように消えていく。
"大多数にとっての正しさ"が社会の中で正義になるのはしょうがない。でも、素顔も知らない誰かを、その正義で殴るのはどうなんだろう。
とはいっても、ここまで生活が液晶画面に占拠されてしまっては、みんなちょっとずつおかしくなっていくよね、とも思う。私だって、芸能人のスキャンダルを見て「あちゃー」と思いながら、スクリャービンのピアノ協奏曲を聴いている。辻褄があわないことばかりだ。でも、好きなものを理由なく好きだと思うくらいは、許される世の中であってほしい。
きっと、SNSを消したあの歌人も、きっとどこかで歌を詠んでいる。淡々と、しずかに生きている。それだけは、まちがいない。
その小さな確信だけで、自分の中の何かが救われる気がするのだ。