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バナナと悟り ~序章~

人にはそれぞれに与えられた(与えられたという表現が合っているのかは分からないけれど)役割があると私は思っている。

役割というと大それて聞こえてしまうかもしれないけれど、
ここで私がいう役割とはもっとおおざっぱなこと。

家族を笑わせる役割とか、電車を愛する役割とか、事業を創る役割とか、緑を増やす役割とか、海と一体になる役割とか、バナナを育てる役割とか、音を体で表現する役割とか、新しい物を創り出す役割とか。

もちろん役割は一つでないこともあって、いろんな役割を併せ持って人は生きているのだと思う。

その役割に気付いて全うしている人もいれば、自分では気付かず(特に役割だなどという意識は持たず)でも淡々と全うしている人もいる。その役割を探している人もいる。

で、その役割の中に「悟りを目指す役割というのもあると思っている。

そして、この「悟りを目指す」役割を全うしたいと思っている人が多くなっていると、最近感じている。

私がここで意図する悟りとは、仏教的に定義されるようなものとは少し違うかもしれない。あくまで日常生活の中でも目指していくことができるもの。そしてそれは生きている間に完結するわけではなく、たとえば芸術や創作活動やその他あらゆるものと同じように終着点を目指し続けるもの。

過去の記事:『答え』はどこにあるのか問題 でも書いたけれど

自分とは一体何者なのかという究極の問をとことん突き詰めて、
ある時『答え』に出会って、さらにその先に行くこと。

ただ、この『答え』を突き詰めていく作業というのは日常を生きているとなかなか行うことが難しい。

自分を空っぽにして、その中で全て有る自分に出会うことを目指すのには、日常ではあまりにも色々な出来事が起こりすぎる。

日常では常に小さなハプニングが勃発し続け(るように感じられ)私たちの心は揺れ続ける。

でもそんな中でも結構な割合で、お寺に出家するとかそういうことをせずとも普通に日々を生きながら「悟りを目指す役割」を全うしよう(したいかも)と思っている人は最近多いと感じています。

序章の始まり
そんな悟り女子、悟り男子と真っ直ぐに話をしていきたいです。


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