ほのぼの日和#6 多様性
今回は、世界が第三次世界大戦になるかもしれないと恐怖、不安の渦中にいる中、私が最近考えていたことを書こうと思います。
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夕飯の準備で、お米を洗っている最中、満タンのジェリカンから鍋に水を入れようとして、盛大にお米と水をこぼしながら思っていたこと。
世界が大変なとき、夜も眠れず、生きること自体が脅かされている状況にある人がいるのに、今日も私はあと水どれくらい必要かとか、ヨーグルト作る実験のこととか、研究しなきゃとかのことで頭がいっぱい。そのことを考える時間はそれに比べるとほんの少し。本当の意味で、その人の気持ちになってとか、状況とかを理解する、自分のこととしてとらえるって難しい。今だから、オンタイムに近く、写真とか動画とかを共有できるけれど、それでも自分とは程遠い世界にしか感じられない。そんなこと当たり前なのかもしれないけど、一応同じ人間、同じ世界に生きてはいるし、どこかしらつながっているはずなのに。
それと同時に、同じ時間、同じ場所にいても、わからない、共有するのが難しいこともある。
学校の生徒たちは私の髪の毛や肌の色をうらやましいと言う。けど、短くて硬めの髪より、さらさらで長く伸びる髪、黒い肌より白い肌のほうがいいとしているものは何なのだろう。もしも、“発展”しているのが逆の立場だったら、逆の方をうらやましいと思うのだろうか。
彼らと同じ生活をしたいと思うけれど、それは簡単なことではない。彼女らが、熱い炭を素手で触っているのを見て、彼女らが素手で触るのだから私もできるだろうと触ろうとしたら、止められた。私たちはメタルフィンガーをもっているから!って。私が触ったらきっとやけどしてたんだろう。彼女たちと全く同じ生活をしたいともおもうけれど、私は素手ではきっと熱せられた炭を触れないし、冷たい水を浴びるのも耐えられないし、毎回火起こしして、マトケ(食用バナナ)とポショ(トウモロコシの粉を練ったもの)生活はできない。全く同じ生活をするのってこんなに大変なことなんだと実感。同じ地球に住んでいるのに、こんなに生活が違う。なぜなんだろう。なんですべて平等じゃないのだろうか。平等だと面白くないから?誰もが同じ生活水準で、同じ苦しみで、同じ幸せを感じるなんて不可能か。
生まれた場所がたまたまそこだったというだけで、全く違う、価値観というか、生活というか、生き方というか。私がアフリカに生まれていたならば何を感じていただろう。洗濯機がある生活、水道がある生活をうらやましいと思っているだろうか。そんなところから来て、2年後にはその生活に戻る、炭にろくに火もつけられない、そんな人をどんな目でみただろうか。
多様性、多様性っていうけど、多様性を突き詰めていけば、あの人がうらやましいと、序列ができてしまったりしないんだろうか。結局のところ、多様性って突き詰めれば、みんな違う、けど、みんな根本では同じように生きる人間であって、みんな同じになるんじゃないだろうか。
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ニュースに加えて、こんなことを考えるきっかけになった、とあるアニメのエンディングの歌詞の一部を載せておきます。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔
僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから