
コスモロジーと、帰依すること
おはようございます、けさはゆっくりめの起床です。ここのところ、とにかく仏教のはなしが多かったですが、まあ、座禅もし、読経もしております。しかしながら、わたしは三宝に帰依する、のみならず、神さんにも帰依しています。帰依というのは、こう、全身全霊をかけて、おたのもうしますって、することでしょう。わたしはキリスト教の神さんにも、アッラーにも、ただ尊いと。
わたしの立場を唯一あげるとなると、コスモロジーのひとだと。そして、コスモロジーというのは、もう、全方位に帰依しているのだ、ということです。そのあたりの、すなの一粒にも、はとの羽にも、わたしは帰依します。会社の同僚にも上司にも。おやにも、その辺を駆けずり回っている小学生にも、老人たちにも、帰依します。まあ、正式な仏教徒のひとからみれば、腐れ外道でしょうなあ。
コスモロジーとは、汎神論でも、アニミズムでもないのですが、スピノザはさけられないかも。
いきとしいけるもの、そして無機物にいたるまで、すべてが悩み苦しんで生きているんです。その、悩み苦しみ、そのプロセス全体こそが悟りなのだと。つまり個人に帰するものではない、みながみな、おじさんも赤ちゃんもお年寄りも、犬も猫も鳩もからすも、みなみな、悟りのなかを生きている、懸命にね。そして、宇宙ってやつもまた、悟っている訳ではないっていうこと。まあ、そうおもいます。