第2章 世界でいちばん熱い夜
第4話 実行委員会に立ちはだかる壁
実行委員会を立ち上げ、会議を開くにあたって最初にぶち当たった壁は、会議をする場所がないということだった。
「本の雑誌社さんじゃ無理ですよね?」
思い浮かんだ書店員さんに誘いの電話やメールを入れ、実際に会って相談しながら実行委員会のメンバーが決まってきた頃、博報堂の中野さんから会議をする場所について相談を受けた。
「本の雑誌社ですか...」
流れ的に本の雑誌社でするのが一番無難だろうし、ぼくも会社にいればいいだけなのでたいそう便利なことだとは感じた。
しかし問題は、本の雑誌社にそれだけの人数の人が入れるスペースがなかったのである。
実行委員というのは、複数の書店員さんに中野さんやシステムの志藤さんは外せず、それに連なる別の人たちもやって来る予定だった。どう少なく見積もっても15人...いや20人は集まるかもしれなかった。
ところが本の雑誌社にある共有スペースはアルバイトが使うテーブルしかないのだった。それは120センチ×210センチで、本の雑誌社では「大机」と呼んでいたけれど、丸椅子を8つ並べたら目一杯で、ここにどんなに詰め込んだとしても10人は座れないだろう。いやそもそも椅子が8つしかないのだった。
ということは椅子からあぶれた人たちは立って会議に参加することになってしまうのだが、そもそも狭い会社にはその立っている場所すらないのだった。
「三密」も「ソーシャルディスタンス」もまだ叫ばれていない時代だったが、それでもさすがにそんな場所で会議をするなんてとても考えられない。中野さんの問いかけにぼくは即座に「NO」と答えていた。
ではどこで集まるか。博報堂は田町と夜集まるには若干不便なところにあり、古幡さんのように迷う人が出てくるかもしれない。また不特定多数の人が入るにはセキュリティ上問題もあっただろう。いちばん簡単なのは居酒屋...ということになるだろうが、酒場でやっていたのでは議論は大いに盛り上がるものの、どこまで行っても酒飲み話の延長線を永遠に歩き続けることになるだろう。そこは一線を引いて真面目な打ち合わせにしなければならないと、ぼくも中野さんも気づいていた。
ならば貸会議室というのが無難だろう。実際に当時、それほどホームページが普及していないなかで、ぼくは「御茶ノ水 会議室」なんてワードを並べて検索したような記憶が残っている。ほんのちょっとだけ検索結果が画面に並んだけれど、そこには当然ながら料金というのがあるのだった。
第二の壁がここに立ちはだかることになる。
いったい誰がその料金を払うのか、ということだ。
まだその頃、名もない本屋大賞実行委員会は、有志の、というかよくわからぬ声かけに応じて、飲み会に集まるのとたいして変わらない心持ちで集まるような集団だったと思う。ぼくも中野さんもそれは同じだった。飲み会よりも少しだけ真剣に本や本屋さんや出版業界のことを語り合える。そんなワクワクする機会が得られる集まりであり、だからこれは本の雑誌社の仕事ではないし、博報堂の仕事でもない。個人的に面白そうと感じてるからやろうとしているだけだった。
そしてそもそもここからお金が生まれるなんて考えてもみなかった。あまりに考えなさすぎて、のちに叱られたり苦笑されたりもするのだが、とにかく誰ひとりとして仕事=ビジネスだとは考えていなかった。
貸会議室の料金が数千円だとしても、本の雑誌社がお金を出す、博報堂がお金を出すというのも何か違うように感じていた。
ただしそれを集まってくる書店員さんに負担してもらうというのもお門違いだと思った。なぜなら書店員さんたちも職務ではなく、交通費も自ら払い、しかも仕事の後に集まるいわゆる余暇というか無駄骨というか、その頃は何かに役立つとも考えていなかったから思いもしなかったけど、いわゆる「ボランティア」なのだった。
ぼくか中野さんのどちらかが負担するとしたらきっとぼくより給料を多くもらっているはずの中野さんになるだろうなあと検索結果の画面を見ていたところ、改めて中野さんから電話がかかってきた。
「昔、博報堂が神保町にあった頃のビルがそのまんま空いてるんですよ。神保町だったらみなさん集まりやすいですよね。そこが無料で使えるかもしれないので確認してみます」
それは神保町駅からほど近い神田錦町に建つ、博報堂第二別館と呼ばれる、後に建て替えの際には日本建築学会から「保存要望書」が出るような、アールデコ風な格調高い建物だった。
2008年に博報堂が赤坂Bizタワーに移転するまで、ぼくたちは何度もこの博報堂第二別館に集まることなるのだ。
第5話 書店員の時代がやってきた
もしタイムマシンが開発されたらぼくはあの日の会議の時間に戻って、音声レコーダーかビデオカメラを設置しておくことだろう。
2003年6月5日に開催された本屋大賞実行委員会の記念すべき一回目の会議は、のちに中野さんが「書店員さんたちがほんとにモチベーション高くて、意見が建設的で、終わったあとふだんの社内会議もこういう人たちだったらもっと前に進むのになあ」とこぼしたほど白熱した議論が取り交わされ、また古幡さんが「長かった、あの会議」と苦笑いを浮かべるほど、長時間に渡る会議だった。
仕事を終えた夜7時前、神田錦町にある博報堂第二別館と呼ばれる建物に、のちに本屋大賞実行委員会となるメンバーが三々五々集まった。入口にある守衛室で名前を記し、会議室のある三階へ階段で上がっていく。階段の手すりはまさしく歴史的建築物を思わせる堅牢なものだった。
そこに集まったのは書店員さん5人、博報堂の中野さんと嶋さん、それに中野さんの上司や部下、BDI(現在ユーピー)の志藤さんに、志藤さんの上司の秋山さん、楽天ブックスの出向から日本出版販売に戻った古幡さん、そして浜本とぼく。
まったくそれまで面識のなかった朝日新聞社の広告部の人たちもいた。中野さんが声をかけ、朝日新聞とも組んで何かできるのではと目論んでいたのだと思われる。どんな理由かわからないものの朝日新聞社の人が来たのは一回目の会議のときだけでその後やってくることはなかった。
さて、ここから古幡さんが長かったと苦笑いを浮かべる会議を再現しようと思う。思うけれど残念ながら記録がない。記録がないので記憶で書くしかない。それが残念でならない。ぼくの人生であれほどエキサイティングした会議は他になく、中野さん同様すべての会議がこうして行われるのであれば、会議ほど楽しいものはこの世にないと思ったほどだ。
僕の正面に5人の書店員さんが並んで座っていた。左から順にオリオン書房ノルテ店の白川浩介さん(31歳)、ブックファースト渋谷店の林香公子さん(29歳)、青山ブックセンター本店の高頭佐和子さん(31歳)、丸善御茶ノ水店の藤坂康司さん(44歳)、ときわ書房船橋本店の茶木則雄さん(46歳)だ。実行委員の呼びかけに即座に快諾してくれた人たちであり、みな毎日売り場に立つ書店員だった。
第1回会議が行われた2003年というのは、それまで右肩上がりだった出版販売額が96年を頂点に減少し始め、6年が過ぎた頃だった。いっときの出版不況ではなく、このまま売上が下がり続けるのではと気付き出した頃でもあった。
そんな中、気を吐いていたのが書店員による販促だった。その端緒となったのは、なんといっても書店員が書いた1枚の手書きPOPから大ベストセラーとなった津田沼のBOOKS昭和堂と『白い犬とワルツを』(テリー・ケイ/新潮文庫)の出来事だろう。
「本の雑誌」2001年9月号には「書店発、驚異のベスセラー」という記事が掲載されており、ちょっと長いがその時代の空気が伝わると思うので引用しようと思う。
『白い犬とワルツを』はその後二十万部どころか百万部を軽く超える大ベストセラーになっていったのだった。
「本の雑誌」の呼びかけに応じたわけではないが、当時の「本の雑誌」を紐解くと、毎月のように書店発の取り組みが紹介されている。
●本邦初!?の人間ポップを発見(青山ブックセンター六本木店間室道子さんが名札の代わりにポップを胸につける)=2002年4月号
●第二の「白い犬」が渋谷にいた!?(山下書店渋谷南口店による遠藤周作『わたしが・棄てた・女」の多面展開)=2002年4月号
●裏百冊の夏はただいま開催中(パルコブックセンター吉祥寺店によるオリジナル夏百フェアの紹介)=2002年9月号
●来年の夏は「裏百」で対決しよう!(ブックファースト京都店での「夏の文庫、裏百選。フェアの紹介」)=2002年10月号
●ハチクロ応援団「自腹'S」登場!(山下書店本店の永嶋恵理子さんを団長に書店横断で『ハチミツとクロバー』を販促)=2003年4月号
●書店員の時代(扶桑社ミステリーフェア冊子「全国名物書店人が贈る12の傑作」フェア及び文教堂書店の「書店発!ベストセラー創造プロジェクト」の紹介)=2003年5月号
●第三回のチャンピオン本は何だ!?(紀伊國屋書店新宿本店の「チャンピオン本」フェアの紹介)=2003年7月号
●カリスマ書店員?(読売新聞夕刊の駅売店ポスターに「カリスマ書店員」という言葉が使われる)=2003年7月号
そして2002年5月号では「全日本書店員が選ぶ賞を作ろう!」と題して、『オリンピア』(あすなろ書房)という訳書についた「全米書店員が選ぶ2000年度売ることに最も喜びを感じた本賞受賞」と『スター★ガール』(理論社)の帯にある「全米書店員が選ぶ『2000年いちばん好きだった小説』」というコピーから、日本でも両賞を作ってくれと呼びかけてもいるのである。
2003年とは、「本の雑誌」の記事だけでなく、『世界の中心で、愛をさけぶ』や『天国の本屋』などたくさんのベストセラーが書店発で誕生していた時期だった。
たとえぼくらが本屋大賞を作らなくても、誰かが書店員が選ぶ賞を作る気運が高まっていたのだ。
第6話 新たな文学賞を作るのだ
これから本屋大賞実行委員会の第一回目の会議の話を書こうと思うのだけれど、まずはじめに記しておきたいことがある。
それは本屋大賞の仕組みを作った一番の功労者は、これは誰がなんと言おうと(誰もなんとも言わないと思うけれど)、ときわ書房本店の茶木則雄さんなのである。
茶木さんが実行委員に居なかったら本屋大賞はできなかった。いや「本屋大賞」はできたかもしれないけれど、今のような本屋大賞は絶対に生まれなかった。書店員として稀有な経験を持つ茶木さんという存在がなければ本屋大賞はできなかったのだ。
2003年6月5日、神田錦町の博報堂第二別館に集まったみんなの前に嶋さんが作った企画書が配られた。これを叩き台として議論を進めましょうということになったのだが、茶木さんは猛然と意見を主張した。
対直木賞としての書店員が選ぶ新たな文学賞を作る。直木賞に対抗するなら公明正大でなければならない。密室で選考委員が決めるのではなく、書店員なら誰でも参加でき、結果もガラス張りにして発表すること。文学賞であるからには単なる人気投票ではいけない。
茶木さんがそこまで「打倒直木賞」にこだわったのは、ミステリー評論家としても活躍していたからかもしれない。ちょうどその年に起きた横山秀夫『半落ち』に対する直木賞選考委員の評価と選評への怒りがあったのかもしれない。あるいはこれまで与えるべきと思われる本に与えられてこなかった不満が溜まっていたのかもしれない。
ただしそうは言ってもどの実行委員も茶木さんの意見をそのまま受け入れたわけではなかった。
まず一冊の本を選ぶということにオリオン書房ノルテ店の白川さんが首を傾げて反対意見を述べた。書店員が本を選ぶというのはおこがましいのではないかと。もちろん全ての本を平等に扱うことはできないけれど、たった一冊の本を全国の書店でブッシュするのは違和感を覚える、1冊選ぶのではなく30冊くらいのフェアにしてはどうかと提案した。
ブックファースト渋谷店の林さんや青山ブックセンター本店の高頭さんもその意見に頷いたけれど、丸善お茶の水店の藤坂さんが諭すように答える。30冊のフェアはもうすでにそれぞれのお店でやっている、それで今の状況ならばこれまでやったことのないことをやらないといけないと。
その賞はすべてのジャンルの本を対象にするのか、あるいは小説だけなのか。小説だけならば外国文学も同列に評価をするのか。疑問が浮かんだら誰もが立場や年齢や経験に関係なく率直に意見を述べた。それに対してまた別の視点で誰かが話す。その繰り返しが続いた。思い当たるたくさんのことが話し合われ、大賞作品を一冊選ぶ文学賞としての本屋大賞がかたち作られていった。
まず、この一年に出た国内小説の中でおすすめしたいものを三冊投票してもらう。それには一位、二位、三位と順位をつける。順位に即して点数が付随されている。その点数換算はどうするか。一位はこれだという想いが強くあるから、二位と三位よりも大きめの点が必要だなどと議論が展開され、それまで黙って聞いていたBDIの秋山さんが、日本カー・オブ・ザ・イヤーの採点方法(持ち点制)などを提案したりもした。
一回の投票では単なる人気投票となってしまうということで一次投票の上位作品をノミネート作とし、それを全部読んで二次投票をすることになったのだが、そのノミネート作を何作にするのかというのも激しい議論となった。
10冊というのが茶木さんの提案だったが、高頭さんが難色を示した。自分だってそうだが多くの書店員は薄給であり、誰でも投票できるというならば、アルバイトで働いている人に最大10冊も本を買わせるのは負担が大き過ぎるのではと。
しかし、茶木さんはここでも折れることはなかった。これは文学賞なんだからそれくらいの覚悟をもって参加してほしい。おれは20冊でもいいと思ってるくらいだと檄を飛ばした。
様々なことを茶木さんが提案し、みんなで議論していった。なぜ茶木さんにそれができたのかといえば、茶木さんには「このミス」を作った経験があったからだ。
阿佐ヶ谷の書楽でアルバイトを始めた茶木さんは、八千代台の良文堂書店で経験を積んだのち、神楽坂の入り口にミステリ専門書店「深夜プラス1」を1986年にオープンさせた。またそれと並行して、ミステリー評論家としての地位も確立し、数々の書評や解説を執筆していた。
ミステリー好きの人たちや出版業界の人たちが茶木さんの周りに集まるようになっていた。茶木さんはそういう人たちとともに第一水曜日に集まる飲み会「一水会」を結成し、ミステリーや出版業界の話を肴に酒を飲んでいた。
そんな中から毎年末、「週刊文春」で発表されるミステリーランキングへの不満がたまり、「このミス」が作られたのだった。それは本屋大賞ができる15年も前のことだ。
今回、この原稿を書くに際して、この辺りの経緯を茶木さんに確認すると以下のような返信が届いた。これは本屋大賞の本筋とは異なるけれど、ひとつの文芸のイベントの貴重な記録となるため、ここに転載しておく。
茶木さんは、文芸のイベントを考えるのは経験済だったのである。そして「このミス」に続いて「本屋大賞」を作った茶木さんの文芸書売り場での功績は、計り知れないのであった。
三時間を超えた会議は、最後にこの賞の名前を決めることに議論が移っていった、
会議室の脇に置いてあったホワイトボードに嶋さんがいくつかの候補を書き記す。
ブックショップアワード
書店大賞
本屋さん大賞
そこにサブコピーの候補も記される。「全国書店員が選んだいちばん!おもしろい本」と。
高頭さんがすくっと席を立ち、ホワイトボードに歩み寄る。
「私たち書店員は、本を読むプロではないから「おもしろい」と評価することはできません。その代わり、私たちは本を売るプロです。だから、ここは…と言って、「おもしろい」を消して、「売りたい」と書き換えた。
そして自らに呼称を付けるのはおかしいでしょうと言って、「さん」を消した。
ホワイトボードに残ったのは、「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本 本屋大賞」という文字だった。
【高頭佐和子(当時;青山ブックセンター本店、現在:丸善丸の内本店)の回想】
【白川浩介(当時:オリオン書房ノルテ店、現在:リブロプラス商品部)の回想】
【藤坂康司(当時:丸善御茶ノ水店、現在:名古屋市志段味(しだみ)図書館館長)の回想】
【林香公子の回想】
【茶木則雄(当時:ときわ書房本店、現在:書評家)の回想】
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