在野研究一歩前(13)「"在野研究者"は"インディーズリサーチャー"なのか?~インディーズバンドとの比較から考える~(4)」
今回の「"在野研究者"は"インディーズリサーチャー"なのか?~インディーズバンドとの比較から考える~」は、以下の四部構成で論述していく。
1.はじめに
2.「インディーズ」とはなにか?
3.在野研究者とインディーズバンドの共通点・相違点
4.おわりに
今回は(4)ということで、以下より「4.おわりに」を始める。
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これまで3つの章に分けて、「インディーズ」とは何か、また「インディーズバンド」と「在野研究者」の共通点・相違点は何か、ということについて見てきた。
共通点については、活動のために必ずしも組織・機関に所属していなくてもいい点や、ともに自分の考えや思いを形にして世間に発表する点が挙げられる。
一方、相違点については、「作品」の受容・評価のされ方や、志している目標の中心に「現状からの脱却」が含まれているかどうかという点が見いだせた。(「現状からの脱却」とは、つまり「インディーズバンド」が「インディーズバンド」であることから抜け出す、ということである。)
以上に内容を踏まえた上で、私が本稿のタイトルとしている問い「"在野研究者"は"インディーズリサーチャー"なのか?」について一つのアンサーを示すとすると、「インディーズ」という言葉の意味のうち「所属の有無に関係なく、(自力で)作品を発表する」部分を重要視すれば、在野研究者を「インディーズリサーチャー」と捉えることには何ら問題はない。次に、「インディーズ」の意味を、いつかはそこから抜け出す、メジャーデビューまでの「過程」として捉えるならば、在野研究者を「インディーズリサーチャー」と表現することは適切であると言えなくなる。
つまり「インディーズ」という言葉をどう捉えるかによって、言い換えの是非が決まるのである。
こうなると、在野研究者を「インディーズリサーチャー」と呼べるか呼べないかを議論することに、そこまで意味はないと思われてしまいそうだが、そんなことはない。
小学校⇒中学校⇒高校⇒大学とまるでベルトコンベアーにでも乗せられているかのように、機械的に進学することが当然視されている日本社会においては(1)、一旦正規のルート(?)から外れて、インディーズバンドとして活動するのも、研究者になるために学業を続けるのも、同じ穴の貉であると見なされるということである。
つまり、ともに夢追い人であり、同志なのだ。「同じ穴の貉」と目されようと知ったことではない。正規のルートなど度外視し、自分の意志を貫く、それでいいのだ。
在野研究者を「インディーズバンド」と比較すること、「インディーズリサーチャー」と言い換えられるかを考えることは、自分以外にも、固定観念に縛られず日々を懸命に生きている同志がいることを認識することに繫がっている。
以上で「"在野研究者"は"インディーズリサーチャー"なのか?~インディーズバンドとの比較から考える~」を終ります。(1)~(4)と四回に分けて長くなってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。
(註)
(1)この点については、本田由紀『若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会、2005)を参照。