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ヴェルニーと軍港の横須賀【後編】|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第14回は、三浦半島の東部、横須賀本港を訪ねる旅の後編です。

地元では「ベース(Base)」の愛称で親しまれている「ヨッコースカッ!」のヨコスカベースとは、米海軍横須賀基地のことだ。三浦半島の西側の動脈が国道134線ならば、基地の正面ゲートのある国道16号線は東側のそれになる。基地の一般公開日である「ヨコスカフレンドシップデー」はここ正面からではなく北の三笠公園内ゲートなどからの入構が多い(通常は入構不可。オープンベースの際は指定された身分証明書[パスポート、写真付きマイナンバーカード]が必要。2022年は10月16日に開催された)。

「僕はいつもすすの降る工廠の裏を歩いてゐた」。(*1)

(*1)芥川龍之介「横須賀小景〈虹〉」より

その三笠公園への途中には横須賀学院があり、校内には海軍機関学校跡の碑がある。大正期、芥川龍之介や弟子の内田百閒がそれぞれ英語と独語の教鞭をとっていた場所だった。横須賀学院はキリスト教系の私立学校で、敗戦のどん底の横須賀の復興に尽力した米海軍横須賀基地指令官、デッカー大佐が創設したものだ(*2)。

東京湾を望む平和中央公園(横須賀市深田台)に立つデッカー司令官像(川村吾蔵作 1949年)。銘板には「横須賀市再建の恩人」と記されている。

(*2)ベントン・デッカー(1899-1983)第4代米海軍横須賀基地司令官。米国海軍少将。夫人とともに、経済、医療、教育、風紀、インフラの改善をした伝説的人物。参考文献:『黒船の再来』ベントン・B・デッカー Kooインターナショナル出版

戦艦「三笠」を横に見て三笠公園内のゲートの二重の検問から構内に入ると、そこは米海軍横須賀基地(*3)の北側エリアだ。住宅群をはじめ野球場や学校、ボーリング場、フードコート、映画館(その名もデッカー・シアターという)、銀行、郵便局などが揃っている。基地の公開日ならば、横須賀に配備されている各艦の出店が並び、剛腕の水兵がBBQの煙を上げて、ステーキやバーガーをふるまってくれる。派手な色のドリンクとともに異文化を楽しみたい。レアなTシャツやキャップも人気だ。

米海軍横須賀基地内にあるデッカー劇場前の「Yokosuka Friendship Day 2022」のサイン。
2022年の「Yokosuka Friendship Day 2022」の様子。帽子やTシャツなどが並んだ。

(*3)かつて半島地区と呼ぶ楠ケ浦、稲岡町等。約240ヘクタールの敷地内に軍人軍属らおよそ21,000人が住む。参考文献:『世界の艦船』2018年11月号「特集 横須賀の日米海軍」

9号バース(船の停泊所)には、第7艦隊旗艦の「ブルーリッジ」が係留されている(表紙写真)。米海軍横須賀基地は、在日米海軍の6つの基地を束ねる司令部が置かれているが、米海軍横須賀基地を拠点とする第7艦隊の司令部はこの艦内にある。時節が合えば隣の12号バースには接岸する空母「ロナルド・レーガン」の姿がある。岸壁の2基の大型クレーンは「ヨコヅナ」「オオゼキ」と名付けられている。6号ドック(*4)ではかつて戦艦大和級3番艦の「信濃」(のちに空母)が建造された。

(*4)横須賀海軍工廠第六船渠(昭和15年[1940]竣工)

1号ドック(明治4年[1871])   現在も使用。

ドック(船渠)といえば、米海軍横須賀基地の産業遺産の嚆矢は1号ドック(*5)だ。榎本武楊えのもとたけあきらによる浦賀船渠(乾ドック)に始まった西洋式ドックは、首長ヴェルニーの横須賀製鉄・造船所に続き、彼は洋式灯台や水道系まで創設。1号ドックは城郭にも使う伊豆や真鶴まなづるの小松石などで細工されて、現在も稼働しているのだ。

(*5)横須賀製鉄所第一船渠(明治4年[1871]竣工 日本遺産) 参考文献:『浦賀ドックとレンガ』山本詔一著 浦賀歴史研究所

ニミッツ通りは米軍基地のメインストリート。

ニミッツ大通り(!)を渡り、かつてヴェルニーやモンゴルフィエがいた造船所の坂を上がれば、そこにはいま、凛とした佇まいの在日米海軍司令部と横須賀基地司令部がある。いまこのふたつの建物が大日本帝国海軍の遺産だと想像するのは難しい。海軍横須賀鎮守府、横浜から移転された横須賀港はその後、軍港、軍都として性格づけられて、横浜は国際貿易港として発展することになるのだった。

写真左が在日米海軍司令部(旧海軍横須賀鎮守府庁舎 大正15年[1926]竣工)。右が米海軍横須賀基地司令部(旧横須賀鎮守府会議所 昭和8年[1933]竣工)。 写真左上に見えるのは左から日本国旗、米国旗、国連旗。
旧日本海軍病院の門柱。のち傘は無くなった。

昭和20年(1945)8月30日、連合軍最高司令官D・マッカーサーが厚木あつぎ飛行場に降りた日。帝国海軍横須賀鎮守府庁舎(*6)に米海兵隊が星条旗を掲げた。現在、正面に掲揚された3本の旗は日米旗と国連旗で、朝鮮国連軍各国(*7)は基地の使用が可能になっている。

米海軍司令部建物1階ホールの階段。

現在の米海軍横須賀基地司令部建物1階のホールには、ヴェルニーと小栗上野介忠順おぐりこうずけのすけただまさ(1827-1868)の写真がかかっていて、歴代の米海軍横須賀基地司令官と戦前の日本の鎮守府長官の肖像写真が並んでいる。

米海軍横須賀基地司令部建物1階ホールに、米海軍横須賀基地の歴代司令官の写真と戦前の日本の鎮守府長官の写真が並ぶ。

(*6)横須賀鎮守府 横浜の東海鎮守府が明治17年(1884)に移転。日本の北方から東域の海軍の管理区。警備防御から徴募兵、福利厚生までの業務を担う。現在の建物は関東大震災で倒壊後、大正15年(1926)に再建。
(*7)朝鮮国連軍 外務省HP参照。

              * * *

「コースカ ベイサイドストアーズ」からのクルージングツアーの遊覧船「YOKOSUKA軍港めぐり」は、「シーフレンド7」で45分の航海だ(平日5便、土休日6便)。はじめは米海軍横須賀基地の埠頭に沿って進み、先の1号ドックを水辺から眺め、徐々に灰褐色の米海軍のイージス駆逐艦や巡洋艦が猛々しい姿を見せる(*8)。近年、米・日の国籍ではない軍艦の寄港が多くなった。北朝鮮の瀬取り監視だろうか。船内のガイドの解説ががぜん熱がおびてくるのだ。

(*8)イージスとはギリシャ神話の神・アテナが持つ防具がその名の由来。

軍港めぐりで一番人気はやはり米海軍の空母だ。出港すると何ヶ月も帰港せず、観光の目玉は不在になる。現在横須賀本港には、さきの旗艦「ブルーリッジ」と空母「ロナルド・レーガン」と3隻の巡洋艦、8隻の駆逐艦(第15駆逐隊)からなる第5空母打撃群が中心となり、出入港を繰り返している。湾口にでると、船上デッキから沖で碇泊していた黒金くろがねの旧連合艦隊を想い浮かべた。かつて三浦半島全体が軍機保護法で写真や写生などが厳しく禁じられていた時代があったのだが、いまや乗客がスマホや望遠カメラで自由に軍艦を狙うさまに、過ぎ去った長い時を感じた。軍港めぐりは要塞島猿島とともに横須賀の大きな観光資源となっている。吾妻島沖を回頭した。

「YOKOSUKA軍港めぐり」。横須賀本港(写真手前)と長浦港(写真奥)を結ぶ、新井堀割水路。かつて半島だった。

やがて船は長浦湾に入った。軍港横須賀のもう一つの要港だ(*9)。日本はその後この岸辺に海上自衛隊を創設させた。ここ船越地区は掃海艦艇の母港だったが、近年、自衛隊艦隊や護衛艦隊、潜水艦隊司令部や情報管理部門などが移設され、新庁舎が建つ丘には、関東自動車工業やあのデッカー大佐が創立にかかわった栄光学園があった(のちに鎌倉市に移転)。

(*9)参考文献:『田浦をあるく』田浦地域文化振興懇話会編

海軍機関学校教師だった芥川龍之介の資料が見られる、海上自衛隊第2術科学校・機関術参考資料室。

海上自衛隊発祥地だった第2術科学校(機関・機械)は、かつての水雷学校跡で、ここの海軍機関術参考資料室には芥川龍之介が教鞭を執った当時の関連資料を含む日本海軍の貴重な資料を見ることができる(*10)。

(*10) 見学は予約制。海上自衛隊第2術科学校HP参照。

長浦港の海上自衛隊の各司令部と施設群。

長浦湾には海上自衛隊の任務を下支えする艦艇の造修工作所や需品の補給処、倉庫群、病院、保育所などがあり、新しい潜水艦施設もできている。吾妻島との新井堀割に船が進入すると元の横須賀本港へ向かう。

堀割を抜けると、そこは日本の護衛艦隊が密集する吉倉桟橋で、横須賀を母港にする護衛艦は11隻、潜水艦は10隻が停泊する(2022年6月現在)。海上自衛隊最大の空母型護衛艦「いずも」のために改築された逸見へみ岸壁には、2022年からステルス型の「もがみ」や「くまの」が常駐して、その斬新なデザインで熱いフォトスポットになっている。

この日本側エリアには海上自衛隊の横須賀地方総監部があり、かつての横須賀鎮守府に似た役割を果たしている。基地の一般公開日(*11)には、乗艦体験や各艦艇じまんのカレーもあり、特に賑わうのがこの岸壁と桟橋だ。ここから対岸の旧鎮守府庁舎を眺めることができる。幕末から維新へ、小栗が奔走し、ヴェルニーが造り、モンゴルフィエがカメラを覗いた横須賀村。そして戦火をくぐった横須賀港には、いま21世紀の日・米のハイテク艦が共に錨を下ろしている。

戦後、平和産業都市に転換をはかった横須賀。軍港の宿命さだめを背負いつつ近代日本を牽引した産業遺産の博覧地としても、遊歩と洋上から見つづけたい。

(*11)海上自衛隊横須賀地方隊HP参照。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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