「どん底でも楽観的な自分が後々の自信につながりました」堀越謙三(映画プロデューサー)|わたしの20代
僕の20代をひと言で言うなら〝苦いチョコレート〟かな。学生時代は大学闘争の真っただ中。闘争そのものより、そこで起きた意見の相違で傷つけ合ったり友人関係が壊れたりしたのがつらかった。要は、人間を見てしまったわけです。幻想と現実とのギャップを抱える自分に対しても鬱屈したものを抱いていたし、楽しくはあるけど、いつも底に苦いものが沈殿している感じ。大学卒業後、ドイツに行ったのも、そんな息苦しさから逃げたかったというのがあったと思います。
就職するという発想はなかったですね。僕が在籍していた早稲田大学文学部には文学賞を目指しているような人間ばかりいて、まともな道を歩んだら負けという空気があってね。滅びの美学ですよ。だけど、家で母と一緒にテレビドラマを観ていたときに「昼間から親子で観てるのもみっともないから、大学出たらどこか行きなさい」と言われて(笑)。それでアルバイトをしてお金をため、ドイツに渡ったんです。なぜドイツかといえば大学でドイツ文学を専攻していたからで、独文を専攻したのも高校時代にたまたまトーマス・マンなどを読んでいたから。人生の選択なんてそんなものです。
ドイツでは当然のことながらすぐに資金が底をつき、ヒッチハイクしてたどり着いたのがスイスのバーゼル。駅で1週間くらい水とパンだけで過ごしたんじゃないかな。ただ、この経験が後々の自信になりました。それは、どん底を見たからこの先何があっても大丈夫、というものではなく、自分はどん底でもあっけらかんとしていられる、という自信。だって、まったく暗くならないんだから。明日死んでもまぁいいかって(笑)。これは母親の血筋でしょう。究極の楽観主義で遊び好き、そして粋な人だったんです。
その後、ちょうどドイツ留学を終えて帰国する友人が、宿泊場所や病院の看護補助の仕事を紹介してくれて生き延びました。バイトで通訳もしたけど、人のやりたがらない仕事も受けたので大変でしたよ。ILO(国際労働機関)の会議では、日本人参加者用に報告書まで作ることになって四苦八苦。そうしたら、事務局長が毎日、僕のためにレクチャーしてくれたの。若者の無知は時に武器でね、変に知ったかぶりしなければ、皆教えてくれるものなんです。
映画に携わるようになったのは、日本航空から依頼されたチャーター便専門の旅行代理店を友人と起業した後。在独日本人の集客のためにドイツ各地で日本の映画やドラマの上映会をしたわけです。旅行代理店の日本支部立ち上げのために帰国してからも、映画上映は続けました。当時の日本には外国映画があまり入ってこなかったので「それなら俺がやろう」と、輸入して上映したんですね。ヴィム・ヴェンダース監督*に直接会って買い付けた「さすらい」は、日本人が個人で買った初めての外国映画じゃないかな。
その後、年商40億円の収益事業に成長していた旅行代理店を日本航空に売って、そのお金で渋谷に「ユーロスペース」を開館。結局、最ももうからない道を歩んだわけで、以来お金なんてたまったことがない(笑)。でも楽しくて面白いのが一番でしょ? 仕事を通じて、映画史に名を残す監督たちと関係が築けた。この幸福感は大きいですよ。
談話校正=佐藤淳子
出典:ひととき2023年12月号
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