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イスタンブルのパサージュと伊東忠太・山田寅次郎|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、明治時代に世界建築行脚の途上、イスタンブルを歩いた建築家・伊東忠太と、同時期に日本とトルコを商業で結んだ山田寅次郎のお話です。

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あっという間に年の瀬が迫ってきた。

美しいイルミネーションに彩られ、新年の贈り物を探す人々で賑うイスタンブルの繁華街、ベイオウル地区をあるくと、ふと思い出す。今ではもう跡形もない、けれど大通りから入った小道に、ひっそりと隠れた物語のことを。

イスタンブルで暮らした最初の日本人と、それを訪ねた建築家の話である。
厳密に言えば「最初」ではない。だが、イスタンブルに拠点を持ち、十数年単位で定住したという意味で、「最初」だろう。

明治時代、オスマン帝国スルタンが明治天皇に船を差し向け、帰りに台風にあって和歌山県串本沖で遭難した話は有名である(エルトゥールル号事件)。その義援金を集めて単身イスタンブルに渡り、国交のないオスマン帝国と日本の間に商業の端緒を開いた人物、山田寅次郎(1866-1957)も、日土関係ではよく知られている。

オスマン帝国の伝統衣装、カフタンを着てターバンを巻いた山田寅次郎(1866-1957)。手にしているのは水煙草。寅次郎はオスマン帝国の紙巻煙草の技術を日本に導入した人物でもある。画像提供=山田家

その寅次郎は、いったいイスタンブルのどこにいたのか?

それが今月の話題、ハッゾプーロ・パサジュである。「パサジュ」とは、フランス語の「パサージュ」から来ている。小売店が立ち並ぶ(多くは屋根付きの)通り道、アーケード街のことだ。パサージュ・ヴィヴィエンヌやパサージュ・デ・パノラマなど、パリのパサージュは、一説にはオスマン帝国のカパル・チャルシュ(原義は屋根付き市場、グランド・バザールのこと)から来ているというが、そんな壮大な建築論は、ひとまず置いておこう。

寅次郎のいたパサジュの「ハッゾプーロ」とは、ギリシャ正教徒のオスマン帝国臣民の名前だ。有名な銀行家、キリアコス・イオアニス・ハッツォプロ、あるいはガラタの銀行家、ヨルゴ・ザリーフィ・ハジョプロだという人がいるが、定かではない。

イスタンブルの目抜き通り、イスティクラル(「独立」)通り(オスマン帝国時代の名前は、ジャッデ・イ・ケビール、あるいはグラン・リュ・ド・ペラ、ペラ大通り)に面したちいさな入り口があるが、奥行きは深い。昔は色とりどりの糸やファスナーやリボン、手芸道具を売る「トゥハフィイェ」屋があったのだが、今はチープなアクセサリーや土産物を売るギラギラした店々に取って代わられた。

「独立大通り」に面したハッゾプーロ・パサジュの入り口。小さな店の入り口のように見えるが、奥にずっと続いている。
昔は裁縫道具屋さん「トゥハフィイエ」屋があったところは、今はアクセサリー店になっている。

そこを通り抜けると、古い石畳の小さな中庭に出る。その丸い石の石畳は、そこだけが19世紀の街並みを彷彿とさせる。中庭に面して、古本屋や、チャイ屋や、そうだ帽子屋もあった。ウィンドウに古風なモデルの並ぶ、注文に応じて作る帽子屋だったが、それも今はもうない。

ハッゾプーロ・パサジュの、恐らくはここだけ昔のまま残っている石畳。

中庭から左手奥は、そこだけ建設年が古く、1850年代。他は1871年である。奥は、ロシア正教会に通じていた。そういえば、ロシア革命を逃れてイスタンブルにやってきた白ロシア人が開いた料理店「レジャンス」も、そこから通り抜けていくことができた。黒いドレスに白髪のシニヨンのロシア人マダムが、まだ帳場にいた頃の話だ。

今思えば、私が留学してすぐの頃、イスタンブルにはまだ昔の匂いがそこここに感じられた。肩幅だけのような細い路地や小さな階段、網の目のようなイスタンブルの路地裏の魅力に、わたしは夢中になった。

寅次郎や忠太、アフメット・ミドハトがいた中庭。

その中庭に面して、アフメット・ミドハト・エフェンディ(1844−1912)が印刷所を持っていた。最初期のジャーナリスト、フランス語に堪能ながらアラビア語、ペルシャ語の造詣も深く古い価値観の知性も併せ持つ知識人だった。「パリ彷徨」や「パリのトルコ人」の書き手は、その印刷所では政府批判の地下印刷をしていたものだから、当然当局の手入れがあった。ミドハトが捕らえられたのも、その中庭だったのだという。だから、このパサジュは、古いオスマン帝国を変えて新しく生まれ変わろうとする青年たち、「青年トルコ党」の知識人たちが頻繁に出入りする場所となった。(ちなみに、歴史上より有名な、オスマン帝国で最初の憲法の制定に尽力した大宰相アフメット・ミドハト・パシャ(1822−1844)は、同姓同名だが、別人物である。)

日本からエルトゥールル号事件(1890年)の義援金を持って行った山田寅次郎が店を構えたのは、そんな場所だった。ギリシャ正教徒やアルメニア聖教徒、のちにナショナリズムへとつながる急進的なトルコ人たちや、さまざまな人々が集う、ポケットのような場所だった。寅次郎が支配人を務めた中村商店の本来の店主中村健次郎は退役軍人、時代は日露戦争前後。店では、さまざまな街の噂が飛び交ったにちがいない。

山田寅次郎を訪ねた建築家伊東忠太(1867−1954)は、世界一周建築行脚の途上、イスタンブルで4カ月を過ごした。滞在中忠太は、ギリシャ語、アルメニア語、オスマンル語、英語の4カ国語で印刷した名刺を作っている。こんな環境だったから作ってみようと思ったのだな、と腑に落ちる。

東京帝国大学教授の建築家、日本で最初の建築史家・伊東忠太(1867-1954)。代表作に東京築地本願寺、一橋大学兼松講堂、京都祇園閣など。1902-1905年、世界一周建築行脚旅行の途上、オスマン帝国に8カ月半滞在した。画像提供=伊東家

忠太は、インドを旅行中に、これから訪れるイスタンブルにいる山田寅次郎と連絡をとった。できる限りの事はしましょう、という返事を頼って忠太は寅次郎を訪ねる。紹介者は、世界初のシベリア単騎旅行を成功させたことで世界に名を馳せた情報将校、福島安正(1852−1919)だった。友情はそこからはじまり、アナトリア、エーゲ海、エジプト、パレスチナをめぐる忠太のオスマン帝国内の旅の途上、二人は頻繁に絵葉書をやりとりした。コンヤで臭虫の大群に襲われ苦しむ忠太に、イズミルに着いたらかゆみ止めの薬をお買いなさい、と、寅次郎が書いたのは、この中庭からだったはずだ。

中庭の奥にあるチャイ屋。昔はこの奥からロシア正教会に通り抜け出来たが、今は閉め切りになっている。

忠太と寅次郎のそんなやりとりや、二人が闊歩していたころのイスタンブルの話を詳しくお読みになりたい向きには、ぜひ拙著を覗いてみて欲しい。現在のイスタンブルの街角に、ふと二人が出てくるような、そんな錯覚を覚えるような場所も、まだ残っている。

* * *

中庭を抜けて出る向こう側は、メシュルティエット(立憲)大通り。日本人が多く泊まったブユック・ロンドラ・オテリ(大ロンドンホテル)は、この通りに面している。エルサレム巡礼の途上に立ち寄り、ロシアでトルストイに会った徳富蘆花(1868−1929)や新聞記者・評論家の朝比奈知泉(1862−1939)、のちに総理大臣となった若き日の幣原喜重郎(1872−1951)など、みなこの ホテルに宿泊している。アガサ・クリスティの定宿ペラパラス・ホテルもすぐ近くだが、日本人にはこのこぢんまりとしたホテルが人気だったようだ。

メシュルティエット(立憲)大通りに面した側のハッゾプーロ・パサジュの入り口。
明治時代に、日本からの旅行者が数多く滞在したブユック・ロンドラ・オテリ(大ロンドンホテル)は今も健在。レトロな内装が当時を彷彿とさせる。

日露戦争から第一次世界大戦前後、ペラ界隈には、こんな日本人たちがいて、世界を見、ほんのひととき集って日本を語りあっていた。

2024年は、日本とトルコにとって外交関係樹立100周年という特別な年だった。多くの人が、笑顔で新しい年を迎えられる世界になるよう祈る。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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