見出し画像

詩人にして名随筆家・薄田泣菫と鷹峯の光悦寺|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第12回は、明治から大正にかけて活躍した詩人・すすききゅうきんです。泣菫は、彼が「レオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する巨人」と評したほん阿弥あみ光悦こうえつの眠る光悦寺(京都市北区)に友を連れて訪れた思い出を随筆に綴りました。晩年、病魔におかされた泣菫は記憶をもとに執筆を続けましたが、きっとここでの風景は繰り返し思い出すものとなったことでしょう。

 明治から大正にかけて、詩壇の寵児として活躍した薄田泣菫(1877~1945)。島崎藤村や土井晩翠ばんすいによって拓かれた日本の詩の世界を受け継ぎ、それをさらに高めた浪漫派、象徴派詩人の第一人者です。22歳で刊行した第一詩集『てき集』で注目を集め、1906年の『白羊はくようきゅう』で詩人としての地位を確立しました。

若かりし頃の薄田泣菫 写真提供:薄田泣菫顕彰会

 その泣菫が随筆・散文の名手だったことは、あまり知られていません。早熟の詩人であった泣菫は、1908(明治41)年に最初の随筆集『落葉』を発表して以来、徐々に詩作から遠ざかっていき、やがて随筆家として精力的に活躍するようになります。晩年はパーキンソン氏病を患い、口述筆記に頼りながらも執筆を続けました。

薄田泣菫生家/倉敷市連島町連島1284番地 開館時間:午前9時から午後4時30分 
☎086-446-4830 写真提供:薄田泣菫顕彰会

 泣菫の随筆は、天才的な詩人だけが持つ眼と心で、自然の微妙な動きや人間の行動を観察し、それを詩的な文章で描写した点に特長があります。作家のまる才一さいいち氏や文芸評論家の谷沢永一氏など、泣菫の随筆を高く評価する方は現代でも少なくありません。

詩友・蒲原有明を連れて訪れた洛北鷹峰の光悦寺

 明治41年の初夏のある日のこと。詩友の蒲原かんばら有明ありあけが旅の途中に、当時、泣菫が暮らしていた京都を訪れました。「これはいい機会」とばかり、泣菫はやはり友人で劇作家の高安たかやす月郊げっこうと共に、洛北鷹峯たかがみねの光悦寺に有明を案内することにしました。
 
蒲原有明君が夫人と同道で佐賀へ行かれての帰途、京都へ立ち寄られたのを機会しおに、月郊君と一緒に案内に立って、光悦寺を訪れることにした。
 
金閣寺を出て、野道を北へ紙屋川について上ると、路辺の草原にはうぶだらけの毛莨きんぽうげや、あざみの花がまぶしそうな眼つきをして、初夏の太陽の光に見惚れている。山には躑躅つつじがはいつくばったように咲き盛って、どこかにのんきそうな初蝉の嗚声がする。

きんぽうげ

 泣菫らの一行はまず金閣寺におもむき、そこから北へ道をたどって、紙屋川(正式には天神川てんじんがわ)の谷に沿って歩きました。花々の美しく咲く、のどかな田舎道です。
 
ひる過ぎの日ざしを一杯に浴びた光悦寺のいらかが、緑の木立ちにちらと見えかかると、道は程なく一軒家の水車小舎に突き当たって、かたことと疲れたように水車の回っているのが見られる。右へ折れるとみちはたらたらと紙屋川の浅瀬へ下りる。ぞんざいに懸け渡した歩板あゆみを踏むと、板は歩ごとに撓えて、水はひたひたとあしのうらに浸る。
 
 光悦寺のある鷹峯たかがみねとは、京都盆地の北端にある小高い丘(標高は約160m)で、西に紙屋川の渓谷、北にきょうとうげに続く山を背負い、東南に緩やかに傾斜している土地です。鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・てんみねの三山に囲まれ、往古は住む人もほとんどなく、平安時代には天皇が遊猟、鷹狩に興じていた地とも、鷹狩に用いる鷹を捕捉した場所ともいわれています。

鷹峰三山を見渡す景勝の地とされる光悦寺からの眺め

 1615(元和元)年、大坂夏の陣で豊臣家が滅びた直後、本阿弥光悦が徳川家康よりこの地を与えられ、一族や門弟、工人、職人衆と共に移り住みました。当時は辻斬りや追い剥ぎの出没する物騒な土地だったと本阿弥家では伝わっているそうです。

光悦垣 光悦が好んだとされる竹垣

 刀剣の研ぎや鑑定めききを業とする本阿弥家に生まれた光悦は、茶や書、陶芸、漆芸など、さまざまな分野で才能を発揮した才人。世界にも影響を与えた「琳派」の祖として、日本文化の発展に絶大な寄与をした大芸術家です。
 
 光悦を中心に、この地で工人たちによる多彩な創作活動が展開され、一時は55軒もの屋敷が並ぶ一大芸術村となりました。光悦寺は、光悦の屋敷内にあった堂をその死後に寺としたもので、創建は1656(明暦2)年と伝えられています。

雪佳筆 光悦翁画像 写真提供:光悦寺

敬愛する本阿弥光悦が眠る場所

河を東へ渡ると、道は直ぐもうたいきょざんの裏手にかかる。山の背一帯に生え繁ったいちいの若木を掻きわけて上ってゆくと、しなやかな若葉が顔に触るたびに、瑞々しい匂いが微かに胸に染み入る。
 
 大虚山とは光悦寺の山号のこと。紙屋川を渡って、一行は光悦寺の寺内に入ります。初夏の爽やかな空気の中に、櫟の木の若葉の匂いがかすかに広がります。
 
山を上りつくすと、心もち平地になって、あちこちに墓場が見える。右へずっとかけ離れて、背後に垣をひかえたのが光悦の墓である。いつぞやひら白星はくせい*君と一緒に来たおりには、ちょうど冬の最中だったので、どの木のものとも知れぬ落葉がそこいら一杯に散らばっていたが、今はどの木も、どの木も、すっかり青葉して、見るから若々しい色と光に充ち溢れている。寛永の昔、芸より道に、游泳自在を極めた魂の人はここに眠っているのである。

平木白星* 明治から大正期の詩人・戯曲家

 光悦寺のある場所は、本阿弥家の先祖供養が行われていた位牌堂があったところといわれています。光悦は1637(寛永14)年に80歳で亡くなり、この寺の墓所に葬られています。
 
後の記念かたみにといって、有明君は墓石にくくしつけられた経木の一枚を懐中に収め、私はまだ台石にこびりついている笹葉を一枚ぎ取り、帽子の帯に挟んで、さて振りかえってみると、月郊君はすたすたと先に立って、いちいの小枝を掻き分けながら、裏道より光悦寺の入口へと急いでいる。
 
 裏道から光悦寺に入った一行は光悦の墓を眺め、思い思いの行動を取ってから、寺に向かいます。
 
案内に導かれて座敷へ通ると、留守居と見えて、五十余の坊さんが鼠色の衣を被りながら不器用な手つきをして茶を進めてくれる。次の室では目の赤しょぼけた婆さんが、べっこう縁の眼鏡をかけて、せっせと継ぎ物に精を出している。
 
縁端えんばなに座を進めてずっと南を見おろすと、近く庭前にわさきに一抹の墨を引いた大松の二三本に、緑青の一刷毛を塗ったような前山を配合とりあわせて、そのなかに灰色がかった京の町の一角を見る風情は、さながら光悦作中の逸品をべて見る心地である。
 
 現在の光悦寺の境内には7つの茶室が散在しますが、これはみな大正以降の建物なので、泣菫が訪れた明治41年には存在していません。一行は恐らく庫裡くりの縁側から、京都の町並みを遠望したのでしょう。そして、泣菫は光悦の作品の鑑賞を依頼します。

かねて見覚えのある光悦が色紙の一見を頼むと、坊さんは物忘れしたらしく、幾度か小首を傾げて、やっと思い出したように立上ったと思うと、次の室から恭々しうそれを取出して来た。
 
鼠色の色紙地に墨と銀とですすき桔梗ききょうとを取合せたのへ、しきない親王しんのう*の「忘れてはうち歎かるるゆうべかな」の一首が流れるようにしるしてある。ほんの小幅に過ぎぬが、光悦の秀抜なる抜術は遺憾なく現れていて、胸も透くように心地よく見入られる。

式子内親王* 歌人。後白河天皇の皇女

光悦はレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する巨人

 泣菫にとって、光悦は特別な存在のようです。ここで泣菫は、光悦の偉大さについて、心を込めて熱く語り始めます。
 
わが芸術史における巨頭の数あるがなかに、技術において、人柄において、光悦はそのいずれに比べてもあえて見劣りのするものでなかった。
 
彼は自然を観る眼とこれを再現する手腕とをもっていた。おおまかな自然が、つい忘れていた「調和」というものを見出すのに鋭い眼をもっていた彼は、その一点を捉えて自然の全生命を贈示し、髣髴ほうふつせしむるに十分なるりょうをもっていた。彼の芸術家としての技能はさばかりしゅうばつなるものであったが、その人物はそれにもまさって偉大なるものであったらしい。
 
私は彼を想うごとに、国民性と個性とふたつながら鮮からぬ差異は認めながら、なおその技能の多方面なるにおいて、人物の技術を超越していった一味の風格において、また技術と性格と共に独創的なる点において、あの文芸複興期の巨人、レオナルド・ダ・ヴィンチの名を想い出さぬ訳にはゆかぬ。私は他日もし彼についての十分なる知識と閑暇とをあわせ有する機があったなら、メレジュコウスキィ*1が作のいわゆる『先駆者』*2として、彼を伝えたいものだと思う。

メレジュコウスキィ*1 ロシアの作家
 『先駆者』*2 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を描いた歴史小説

「光悦はレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する巨人だ」と主張する、泣菫の強い思いが伝わってくる文章です。その意味でも、光悦の眠る寺は泣菫にとって別格の場所であり、友人の有明をどうしてもここに連れて来たかったのでしょう。

本阿弥光悦翁木像 写真提供:光悦寺

ふと後ろを見ると、坊さんは立上って、縁づたいに本堂へと案内をしようとする。そこには光悦の霊牌が祠られてあるということだ。私は後よりついて入っていった。
 
 泣菫がこの随筆を書いたのは31歳の時。まだまだ若さのみなぎっていた時代です。しかし、泣菫は不幸にして40歳過ぎから病魔との闘いに苦しむようになり、50歳過ぎにはまぶたやあごの神経も麻痺し、ほとんど外出もできなくなってしまいました。晩年の随筆は、ほとんど記憶と想念の力で描いたものです。

円熟期の薄田泣菫 写真提供:薄田泣菫顕彰会

 そんな泣菫にとって、友と訪ねた若き日の眼に映った光悦寺の風景は、忘れられない、かけがえのない記憶となったことに違いありません。
 
 出典:薄田泣菫『泣菫小品』「光悦寺」
文=藤岡比左志

光悦寺
京都市北区鷹峯光悦町29
開園時間 8時~17時(紅葉時は8時半より)
☎075-491-1305

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

▼連載バックナンバーはこちら


この記事が参加している募集

最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、ウェブマガジン「ほんのひととき」の運営のために大切に使わせていただきます。