詩人にして名随筆家・薄田泣菫と鷹峯の光悦寺|偉人たちの見た京都
明治から大正にかけて、詩壇の寵児として活躍した薄田泣菫(1877~1945)。島崎藤村や土井晩翠によって拓かれた日本の詩の世界を受け継ぎ、それをさらに高めた浪漫派、象徴派詩人の第一人者です。22歳で刊行した第一詩集『暮笛集』で注目を集め、1906年の『白羊宮』で詩人としての地位を確立しました。
その泣菫が随筆・散文の名手だったことは、あまり知られていません。早熟の詩人であった泣菫は、1908(明治41)年に最初の随筆集『落葉』を発表して以来、徐々に詩作から遠ざかっていき、やがて随筆家として精力的に活躍するようになります。晩年はパーキンソン氏病を患い、口述筆記に頼りながらも執筆を続けました。
泣菫の随筆は、天才的な詩人だけが持つ眼と心で、自然の微妙な動きや人間の行動を観察し、それを詩的な文章で描写した点に特長があります。作家の丸谷才一氏や文芸評論家の谷沢永一氏など、泣菫の随筆を高く評価する方は現代でも少なくありません。
詩友・蒲原有明を連れて訪れた洛北鷹峰の光悦寺
明治41年の初夏のある日のこと。詩友の蒲原有明が旅の途中に、当時、泣菫が暮らしていた京都を訪れました。「これはいい機会」とばかり、泣菫はやはり友人で劇作家の高安月郊と共に、洛北鷹峯の光悦寺に有明を案内することにしました。
蒲原有明君が夫人と同道で佐賀へ行かれての帰途、京都へ立ち寄られたのを機会に、月郊君と一緒に案内に立って、光悦寺を訪れることにした。
金閣寺を出て、野道を北へ紙屋川について上ると、路辺の草原には生毛だらけの毛莨や、薊の花が眩しそうな眼つきをして、初夏の太陽の光に見惚れている。山には躑躅がはいつくばったように咲き盛って、どこかにのんきそうな初蝉の嗚声がする。
泣菫らの一行はまず金閣寺におもむき、そこから北へ道をたどって、紙屋川(正式には天神川)の谷に沿って歩きました。花々の美しく咲く、のどかな田舎道です。
午過ぎの日ざしを一杯に浴びた光悦寺の甍が、緑の木立ちにちらと見えかかると、道は程なく一軒家の水車小舎に突き当たって、かたことと疲れたように水車の回っているのが見られる。右へ折れると途はたらたらと紙屋川の浅瀬へ下りる。ぞんざいに懸け渡した歩板を踏むと、板は歩ごとに撓えて、水はひたひたと蹠に浸る。
光悦寺のある鷹峯とは、京都盆地の北端にある小高い丘(標高は約160m)で、西に紙屋川の渓谷、北に京見峠に続く山を背負い、東南に緩やかに傾斜している土地です。鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰の三山に囲まれ、往古は住む人もほとんどなく、平安時代には天皇が遊猟、鷹狩に興じていた地とも、鷹狩に用いる鷹を捕捉した場所ともいわれています。
1615(元和元)年、大坂夏の陣で豊臣家が滅びた直後、本阿弥光悦が徳川家康よりこの地を与えられ、一族や門弟、工人、職人衆と共に移り住みました。当時は辻斬りや追い剥ぎの出没する物騒な土地だったと本阿弥家では伝わっているそうです。
刀剣の研ぎや鑑定を業とする本阿弥家に生まれた光悦は、茶や書、陶芸、漆芸など、さまざまな分野で才能を発揮した才人。世界にも影響を与えた「琳派」の祖として、日本文化の発展に絶大な寄与をした大芸術家です。
光悦を中心に、この地で工人たちによる多彩な創作活動が展開され、一時は55軒もの屋敷が並ぶ一大芸術村となりました。光悦寺は、光悦の屋敷内にあった堂をその死後に寺としたもので、創建は1656(明暦2)年と伝えられています。
敬愛する本阿弥光悦が眠る場所
河を東へ渡ると、道は直ぐもう大虚山の裏手にかかる。山の背一帯に生え繁った櫟の若木を掻きわけて上ってゆくと、しなやかな若葉が顔に触るたびに、瑞々しい匂いが微かに胸に染み入る。
大虚山とは光悦寺の山号のこと。紙屋川を渡って、一行は光悦寺の寺内に入ります。初夏の爽やかな空気の中に、櫟の木の若葉の匂いがかすかに広がります。
山を上りつくすと、心もち平地になって、あちこちに墓場が見える。右へずっとかけ離れて、背後に扇骨木垣をひかえたのが光悦の墓である。いつぞや平木白星*君と一緒に来たおりには、ちょうど冬の最中だったので、どの木のものとも知れぬ落葉がそこいら一杯に散らばっていたが、今はどの木も、どの木も、すっかり青葉して、見るから若々しい色と光に充ち溢れている。寛永の昔、芸より道に、游泳自在を極めた魂の人はここに眠っているのである。
光悦寺のある場所は、本阿弥家の先祖供養が行われていた位牌堂があったところといわれています。光悦は1637(寛永14)年に80歳で亡くなり、この寺の墓所に葬られています。
後の記念にといって、有明君は墓石にくくしつけられた経木の一枚を懐中に収め、私はまだ台石にこびりついている笹葉を一枚捥ぎ取り、帽子の帯に挟んで、さて振りかえってみると、月郊君はすたすたと先に立って、櫟の小枝を掻き分けながら、裏道より光悦寺の入口へと急いでいる。
裏道から光悦寺に入った一行は光悦の墓を眺め、思い思いの行動を取ってから、寺に向かいます。
案内に導かれて座敷へ通ると、留守居と見えて、五十余の坊さんが鼠色の衣を被りながら不器用な手つきをして茶を進めてくれる。次の室では目の赤しょぼけた婆さんが、鼈甲縁の眼鏡をかけて、せっせと継ぎ物に精を出している。
縁端に座を進めてずっと南を見おろすと、近く庭前に一抹の墨を引いた大松の二三本に、緑青の一刷毛を塗ったような前山を配合せて、その間に灰色がかった京の町の一角を見る風情は、さながら光悦作中の逸品を展べて見る心地である。
現在の光悦寺の境内には7つの茶室が散在しますが、これはみな大正以降の建物なので、泣菫が訪れた明治41年には存在していません。一行は恐らく庫裡の縁側から、京都の町並みを遠望したのでしょう。そして、泣菫は光悦の作品の鑑賞を依頼します。
かねて見覚えのある光悦が色紙の一見を頼むと、坊さんは物忘れしたらしく、幾度か小首を傾げて、やっと思い出したように立上ったと思うと、次の室から恭々しうそれを取出して来た。
鼠色の色紙地に墨と銀とで薄と桔梗とを取合せたのへ、式子内親王*の「忘れてはうち歎かるる夕かな」の一首が流れるようにしるしてある。ほんの小幅に過ぎぬが、光悦の秀抜なる抜術は遺憾なく現れていて、胸も透くように心地よく見入られる。
光悦はレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する巨人
泣菫にとって、光悦は特別な存在のようです。ここで泣菫は、光悦の偉大さについて、心を込めて熱く語り始めます。
わが芸術史における巨頭の数あるがなかに、技術において、人柄において、光悦はそのいずれに比べてもあえて見劣りのするものでなかった。
彼は自然を観る眼とこれを再現する手腕とをもっていた。おおまかな自然が、つい忘れていた「調和」というものを見出すのに鋭い眼をもっていた彼は、その一点を捉えて自然の全生命を贈示し、髣髴せしむるに十分なる技倆をもっていた。彼の芸術家としての技能はさばかり秀抜なるものであったが、その人物はそれにもまさって偉大なるものであったらしい。
私は彼を想うごとに、国民性と個性とふたつながら鮮からぬ差異は認めながら、なおその技能の多方面なるにおいて、人物の技術を超越していった一味の風格において、また技術と性格と共に独創的なる点において、あの文芸複興期の巨人、レオナルド・ダ・ヴィンチの名を想い出さぬ訳にはゆかぬ。私は他日もし彼についての十分なる知識と閑暇とをあわせ有する機があったなら、メレジュコウスキィ*1が作のいわゆる『先駆者』*2として、彼を伝えたいものだと思う。
「光悦はレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する巨人だ」と主張する、泣菫の強い思いが伝わってくる文章です。その意味でも、光悦の眠る寺は泣菫にとって別格の場所であり、友人の有明をどうしてもここに連れて来たかったのでしょう。
ふと後ろを見ると、坊さんは立上って、縁づたいに本堂へと案内をしようとする。そこには光悦の霊牌が祠られてあるということだ。私は後よりついて入っていった。
泣菫がこの随筆を書いたのは31歳の時。まだまだ若さのみなぎっていた時代です。しかし、泣菫は不幸にして40歳過ぎから病魔との闘いに苦しむようになり、50歳過ぎにはまぶたやあごの神経も麻痺し、ほとんど外出もできなくなってしまいました。晩年の随筆は、ほとんど記憶と想念の力で描いたものです。
そんな泣菫にとって、友と訪ねた若き日の眼に映った光悦寺の風景は、忘れられない、かけがえのない記憶となったことに違いありません。
出典:薄田泣菫『泣菫小品』「光悦寺」
文=藤岡比左志
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