彗星のごとく駆け抜けた詩人・中原中也の旅路|[特集]山口、天才詩人の故郷
中原中也記念館は生家の跡地に立っている。モダンでシンプルな2階建てだ。館長の中原豊さんは、おそらく会う人ごとに尋ねられ、何度もこう答えたのだろう。「中原といっても、中也とは血縁関係はないんです」と、静かに笑みを浮かべた。
訪ねた日は特別企画展「中也とランボー、ヴェルレーヌ」を開催中だった。フランスの詩人ランボーは、15歳で詩作をはじめ、天才といわれながら20歳の頃には詩を離れる。それから各地を放浪し30代で逝く。「風の靴を履いた男」と称したのはヴェルレーヌで、中也はこの詩人から大きな影響を受けた。
展示品の中に、中也の肖像写真があった。黒い帽子を被り黒いマント姿で、こちらをじっと見つめる。ランボーを気取った1枚だ。
中原中也といえばたいていこの写真が使われる。私たちも、中也といえばこの顔を思い出すが、展示されていた写真に、小さな驚きがあった。それは、よく見ていた写真には、当たり前だが、オリジナルがあって、それはこんな形をしていたのかということだった。
写真は手札判(10.5×8センチ)ほどの小さなもので、それがお見合い写真のように台紙に貼られている。その表紙(と言うのだろうか)には「東京銀座出雲町 有賀乕五郎撮影場」と印刷されていた。
「この写真は中原家に遺されていたものです。おそらく中也が家に送ったのでしょう。薄紙に“中也十九才”と書かれてますが、家族が書いたようです。満年齢で言うと18歳の頃ですね」と中原館長が説明してくださった。
有賀乕五郎はドイツで肖像写真を学び、大正の初めに銀座で写真館を開いた。後に出た作品集(1978年)によると、1890(明治23)年生まれとあるので中也より17歳も年長だ。
有賀は肖像写真を、従来の「人形的写真」ではなく、「陰影のある、浅黒い生きた人間の顔そのものを表現」するものと考えた。その趣旨を客に話し、理解してくれる人だけを撮影したという。
18歳の中也は、初めての東京で、覚悟を胸にこんな写真館を訪ねた。実は、有賀も18歳で単身ドイツに渡っている。その親しみもここには映っているのかもしれない。
「中也は世に文学で起とうとしたんです。だから、文学や芸術を理解しない世間に対する反発は強かったでしょうね」と中原館長が話す。友人の河上徹太郎は、当時の中也の印象をこんなふうに書いている。
「中原は身長五尺を漸くこえ、黒のワイシャツに黒のネクタイ、黒のだぶだぶの上衣を着て、お釜帽子を被り、髪は耳の下までおかっぱに垂らしていた」*。5尺は151センチほどなのでかなりの小柄だ。だが「酔えば見境なく周りの人と喧嘩した」「きいた風のことをいうインテリが一番彼を焦立たせたのだが、時にはやくざでも香具師でも相手にする」。そして「腕力の弱い彼が、いつも叩きのめされてしまった」(「わが友中也」*)。酒癖が悪いというより、安まるところを知らないように見える。
記念館の直ぐ近くに、井上公園がある。長州で活躍した井上馨の生家の跡地で、広い緑地に優しい風が吹き抜ける。ここに七卿の碑という大きな記念碑が立つ。幕末に尊皇攘夷派の公家7人が京都を追われ、湯田に逃げてきたことに由来する。なにしろ山口は明治維新の震源地だ。
この記念碑の建立には中原中也の父親謙助も奔走した。1926(大正15)年、盛大に除幕式が行われた。
館長に公園を案内していただいた。
「これだけ大きな碑ですから、当時は中也の家からも見えたでしょうね。中原家は入院設備もある大きな病院でした。中也は名家の長男ですから、父親からすれば厄介だったと思います」
除幕式の日、中也は東京でぷらぷらしている。送られてきた黒ずくめの肖像写真に、父親の謙助は「いったい何をやっているんだ」と苛立ったかもしれない。母親のフクは台紙の薄紙に「中也十九才」と書き、それをそっとしまったのだろうか。
「やはり山口の風土は、明治維新を誇りに思っているし、志士たちを尊敬しています。大林宣彦監督*がいらした時も訊かれたのですが、そういう政治的な気質の強い土地で、どうして中也のような不良が慕われるのだろうって」。たしかに、あんなにいい人はいなかったと、皆から慕われるタイプでもない。
館長は続ける。「長州も維新のなかではやんちゃをしてるんです。英米の軍艦に大砲を撃ち込んでるんですから。吉田松陰や高杉晋作のわが身を顧みないのめり込み方と、中也の芸術へののめり込み方は、気質としては似ているのかもしれないですね」。
同じ井上公園の一角に、今では中原中也の詩碑がある。そこには小林秀雄の筆で、中也の詩「帰郷」の一節が刻まれている。
これが私の古里だ
さやかに風も吹いてゐる
あゝおまへは何をして来たのだと
吹き来る風が私にいふ
案内人=中原 豊
旅人・文=内堀 弘
写真=阿部吉泰
──この続きは本誌でお読みになれます。16歳で山口から京都に出た中也は、女優の卵であった長谷川泰子と恋に落ち、18歳で2人は東京へ。東大生だった小林秀雄と出会った中也は大きな刺激をうけますが、小林に泰子を奪われてしまいます。その後も彼女に捧げる詩をつくったという中也。小林秀雄宛ての署名本、中也が名付け親でもある泰子の子・茂雄の所蔵アルバムなどをもとに、わずか30才で夭折した彼の人生の旅路を辿ります。
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