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寒いぞ北極 渡辺佑基(生物学者)
小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2024年11月号「そして旅へ」より)
去る5月、アザラシの生態を調査するため、ノルウェーの本土から北に1000キロほど離れたスバールバル諸島を訪ねた。ホッキョクグマが闊歩し、冬にはオーロラが天を揺らす、紛れもない北極である。
出発前、普通の人なら寒さを想像してビビるだろうが、私は屁のカッパ。というのも、かつて国立極地研究所に勤めていたので、北極にも南極にも幾度となく行ったことがある。寒いは寒いだろうが、5月だし、最近は温暖化だし、知れているよね、と余裕をかましていた。
飛行機をいくつも乗り継ぎ、最後はラジコンのごときプロペラ機に乗って、スバールバル諸島はニーオルスン基地に到着。窓から眺めた、巨大な淡青色の氷河が海に張り出す光景は圧巻で、思わず「おお」と声が出る。
翌日から早速、調査を開始した。海外の研究仲間を合わせた5人のチームで、氷の浮かぶ海にボートを出す。気温はマイナス5度前後。風の効果を含めた体感温度は、マイナス10度を優に下回った。持参した防寒具の上に、基地の共用備品であるサバイバルスーツを着た。これは全身をすっぽり包む宇宙服のようなもので、北極の海の調査に耐えうる防寒性と防水性を備える─はずであった。
ところが、海上に出てたちまち気付いた。寒いのである。もこもこと重ね着をした体幹部は平気だが、問題は足先だった。しんしんとした冷気がサバイバルスーツの長靴部分を通過し、二重に履いた靴下をも貫通して、足先を凍らせる。冷たい。痛い。夕方、船着き場に戻った頃には足の感覚が皆無で、ろくに歩けずに這うようにボートを降りた。
翌日から分厚い靴下を三重に履いたが、めざましい効果はなかった。冷気が浸透して足先をおぞましく凍らせ、感覚が失われる。かといって、これ以上防寒のしようがない。仲間の1人は秘密道具として、電池をセットする電熱線入りの靴下を使っていたが、それすら「ないよりはマシ」という程度の効き目のようだった。
調査の最中、足先の冷たさを紛らわそうと、時折ボートを止めてチーム5人でダンスを踊った。氷の浮かぶ青い海のしじまの中で、1人がロックな歌を歌い、ギターの演奏部分は口でギンギン言って、それに合わせて皆が手足をめちゃくちゃに動かした。ボートの床をがんがんと蹴って、血の巡りを促した。
そんなわけで、私は出発前の強気はどこへやら、「寒い、冷たい、帰りたい」とわめきながら調査を続け、1カ月後、ほうほうのていで帰国した。いくら防寒しても、手足の先だけは絶望的に冷たくなることを、今さらながら身をもって知った。
ところで帰国後、思いがけぬ発見をした。泣きたくなるほどの寒さを連日、しこたま経験したことの意外な効用があったのである。
水虫が治った。足の表皮に付着した菌という菌が、寒さのために死滅した。今の私の足の裏は、赤子のそれのようにつるつるピカピカである。
文= 渡辺佑基
イラストレーション=駿高泰子
渡辺佑基(わたなべ・ゆうき)
生物学者。1978年、岐阜県生まれ。総合研究大学院大学 統合進化科学研究センター教授。研究分野は生態学・海洋生物学。動物の体に計測機器を取り付ける「バイオロギング」の手法を使って、海洋動物(魚類、海鳥類、海生哺乳類)の生態を調査している。著書に『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』(河出文庫)など。
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