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手鼻かむ音さへ梅のさかり哉|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

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手鼻かむ音さへ梅のさかりかな 芭蕉

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雅俗のあざやかな対比

 貞享五(1688)年春、芭蕉は故郷の伊賀上野の実家に滞在していた。『笈の小文』の旅のさなかである。二月に芭蕉の亡父の三十三回忌の法要が催されるので、帰省していたのだ。

 門弟土芳自筆の芭蕉句集『蕉翁句集草稿』に所載。前書に「伊賀の山家にありて」とある。「山家」は芭蕉の実家のことである。当時は兄半左衛門の家となっていた。掲出句は伊賀の実家で詠まれたというのが、通説である。

「手鼻かむ」とは、紙を使わずに指で鼻を押さえて鼻をかむこと。句意は「手鼻をかむ音までもがどこか趣深く感じられる、梅の花の盛りであるなあ」。「手鼻かむ」という俗な行為と「梅」という雅な花とをあえて取り合わせている、芭蕉の意欲作である。和歌でも連歌でもかつて詠みえなかった、人の日常生活のの姿が、ここにたしかに描きとめられているのだ。

 伊賀国一宮いちのみやである敢國あえくに神社には、芭蕉が参拝時に掲出句を作ったという伝承があることを神社のホームページで知った。もしそれが真実としたら、新しい読みができるかもしれない。今日はその敢國神社を訪ねてみたい。関西本線佐那具さなぐ駅に下車、田園風景の中を三十分ほど歩くと、神社に到着する。

 参道の楓紅葉かえでもみじが鮮やかである。かたわらに掲出句が彫られた自然石の句碑を見つけた。「手はなかむおとさへ梅のにほひかな」と読める。下五が『蕉翁句集草稿』の句形とは異なっていて、「にほひかな」になっている。

 手鼻をかむと鼻が通って、梅の匂いをしっかりと嗅ぐことができるようになる。それゆえ、「梅のさかり哉」よりも「梅のにほひかな」のほうが、「手鼻かむ」という行為に対して、直接的である。同時に一句全体の句柄も小さくなってしまうような気がする。

「梅のにほひかな」のかたちを誤伝と判断する鑑賞もあるが、ぼくは芭蕉自身が敢國神社で詠んだ初案の可能性も十分あると思う。芭蕉がその初案の問題点を「梅のさかり哉」へと改作して、改善しているという推理も、可能なのではあるまいか。

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「手鼻かむ」は誰がしているのか

 境内には七五三のお参りの家族が訪れていた。男の子のはかま姿がりりしい。祖父母、両親が男の子をにぎやかに囲んで写真を撮っている。

 社務所の前で、興味深いものを見つけた。「芭蕉みくじ」である。ただのおみくじではなく、芭蕉の名を冠しているところは、さすが芭蕉の国伊賀の一宮である。木箱から振り出した棒を窓口の神職に渡すと、薄紫色のおみくじをくださった。

 開くと『野ざらし紀行』冒頭の一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」が刷られてあり、下に「吉」とある。とりあえず、よかった。

 運勢は「もっと自分に自信をもちましょう。積極的に物事にとりくむことで、少しずつ運は開けるでしょう」とあった。そうだ。芭蕉も積極的に旅に出ることで、新たな句境へと展開させていったのだった。

 ことに響いたのは、「健康運 少し体を休ませましょう」というところである。まったくそのとおり、ゆっくり休みたいものだ。芭蕉ファンのぼくには、芭蕉自身にことばをかけてもらったようなうれしさがあった。このおみくじは芭蕉句集のしおりとしてたいせつにしたい。

 さて、この伊賀滞在の後、芭蕉は愛弟子杜国とこくを伴って、吉野、和歌の浦、奈良、須磨明石へと大旅行にでかける。空米取引で罪を得た杜国をなぐさめるために同行させたわけである。『おい小文こぶみ』の旅が続いている。その足慣らしと旅の平安を祈願するために、この時期芭蕉が、敢國神社を参詣している可能性は十分にあると思う。

 もし敢國神社への参詣を行うとしたら、芭蕉は一人では行かないだろう。旅の準備ですでに伊賀に来ていた杜国を伴ったはずだ。とすれば、掲出句の手鼻をかんでいるのは杜国その人である、と想像することができるのではないか。

 たからかな音を立てて手鼻をかんだ愛弟子をからかっている一句と読める。といってけっして馬鹿にしているのではない。香り高き「梅」を取り合わせていることで、杜国への愛情も読みとれる。

『笈の小文』の旅の際、芭蕉は同行の杜国のいびきに眠れず、いびきの音をふくべのような絵に描いた。その絵ともつながる聴覚の鋭さとユーモアとを読みとることもできる。

 きざはしに子子こご袴七五三 實
 きざはしに紅葉散り敷く音を聞け

※この記事は2016年に取材したものです

小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。

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