トルコから見るシルクロード(3)サマルカンドの壁画に描かれたトルコ人たち|イスタンブル便り
最近、「ウズベキスタンへの旅:日本から、トルコからの視点」と題して、 ちいさな講演をした。勤務先の大学で、若い同僚の建築史家、ビルゲが8年前から続けている「旅のノートたち」という連続講演シリーズで、「話してよ」と誘われたのだ。
このシリーズを彼女が始めたのには、わけがある。美術史家や建築史家、考古学者の仲間で、みんなフィールドワークをするけれども、そのノートや写真、感想は、個人的な関係の中で一部披露されることはあっても、学科のみんなが目にする機会はなかなかない。お蔵にしまいこまれてしまう前に、みんなにちょっと見せてよ、そんな気軽な調子で始めたらしい。それを毎月2回、8年も続けているというから、たいしたものだ。
今年のわたしは旅に恵まれていて、年明け早々から調査続きだった。4ヶ月の間に、イタリア、エジプト、ウズベキスタン、 イラン、そして日本へ行った。すべて仕事だ。そのなかで、「どこがいい?」と聞くと、「ウズベキスタン」という答えが返ってきた。学期末の、超多忙な時期だが、望まれるうちが花だ。「いいわよ、じゃあ、撮った写真、全部見せるね」。そう言って約束したのが、この原稿を書いている3週間くらい前のことだった。
ウズベキスタンの旅から帰ってきて、あっという間に3ヶ月になる。このエッセイでも、「トルコから見たシルクロード」と題して、オムニバスにしようと思っていたが、いささか間が空いてしまった。そんなところへ、「旅のノートたち」のオファーが来た。「日本人が見たシルクロード」の感想に、トルコの人たちが興味を持ってくれる、というのも、面白いではないか。
ビルゲのチームが、わたしの撮った写真から、素敵なポスターを作ってくれた。当日は、大学での授業が終わった夕方に、セミナールームに三々五々人が集まった。顔見知りの学生や同僚もいたが、大学内で今まで知らなかった人たちもきてくれて、知り合うきっかけになったのだった。
トルコ人の同僚たちに聞いてみた。「ウズベキスタンって、トルコ人から見ると、どんな感じ?」。
意外な答えが返ってきた。
「未知の世界。」
日本人のわたしから見ると、ウズベキスタンで、「ああ、トルコの文化の〈もと〉は、ここだったのか」と思える場面がいくつかあった。
それなのに、トルコ人の彼らから返ってきた返事は「未知」とは驚いた。
このギャップは何故だろう?
ひとつには、ソヴィエト連邦の存在だろう。ウズベキスタンは、ソ連の一部として、「西側」のトルコ共和国とは、異なる歴史をたどった。そしてもうひとつの理由は、わたしが考えるに、ウズベキスタンの地で往来したさまざまな文化の、根の深さかもしれない。
* * *
サマルカンド、という響きを聞くだけで、遠い遥かな世界に連れて行かれたような気分になる。シルクロードの重要な中継点、オアシス都市。
イスタンブルとはまた違った意味で、いやそれ以上に、さまざまな文化の交錯する場所だ。14世紀から15世紀にかけて、ティームール朝の首都として栄えたこの街が、最初に文献に登場するのは紀元前4世紀、ギリシャ語の文献にソグド人の街「マラカンダ」として出てくるそうだ。
そんな街が、漢文資料にも登場するところが、いかにもシルクロード感を盛り上げる。『後漢書』に「康国」として、『新唐書』には、「薩末鞬」「颯秣建」として出てくるという。
そのサマルカンドの、最も古い部分は、「アフラシヤブ」である。1960年代にサマルカンドで道路工事の途中で発見されたのだ。これは本来、ソグド人の本拠地だった。
ソグド人とはいったい何者だろう?
辞書には、中央アジアのザフラシャン川流域に住んでいたペルシャ系の農耕民族、とある。ソグド語を話し、宗教はゾロアスター教、隊商交易の範囲は東ローマ帝国から中国の長安に及ぶ。文化の伝播に大きく貢献したが、8世紀頃からイスラーム化し、12世紀ごろにはそれぞれの地方で元からあった文化に同化し、消えてしまった謎の民族。
重要な文化の重なりがすでに幾重にもあったところに、さらに途方も無いものが見つかった。アフラシヤブの発見は、喩えていうならそんな感じだろう。発掘するにつれて、その規模と内容に人々は驚いた。 圧巻は、いわゆる「アフラシヤブ壁画」の発見である。
白状するが、この壁画のオリジナルがサマルカンドにあるとは、現地で初めて知った。シルクロードの華やかな優美を今に伝える有名な壁画はもちろん知っていたが、どこかヨーロッパの国の博物館にあるのだと調べもせずに思い込んでいた。
それを知ったのは、 そこから遠くない場所にある墓廟群を見に行こうとして、地図を検索していた時だった。この画像、知っている。まさかこれが、サマルカンドに?
急いで検索をかけた。どうやら、本当らしい。「アフラシヤブ美術館」という美術館が町外れにあり、そこに所蔵されている。
知った瞬間、慌ててタクシーに飛び乗った。
行き着いたのは、何もない、本当に何もない場所だった。あとから知ったのだが、そこからアフラシヤブ遺跡の広大な発掘あとが広がる、その始まりの地点だったのだ。 遺跡だから、建造物がなかったのだった。
壁画は、そのためだけに作られた美術館の建物の中で、圧倒的な存在感を放っていた。
個人の邸宅の四つの壁である。謎が多いのだが、7世紀ごろの、西方トルコ系の王朝だと考えられているそうだ。
7世紀といえば、日本でいうなら奈良時代、法隆寺のころ。中国では、唐がその勢力を西方に広げようとしていた時代だ。
三方の壁には、それぞれ中央アジアに隣接する中国、イラン、インドが描かれている。そして正面奥の壁に描かれているのが、トルコ人(テュルク系の人々)である。キョクトゥルク(「元祖トルコ人」の意)の兵士たちは、韓国、中国、イランの地方部族などが王ヴァルクフマンに朝貢するのに控えている。王の周りに描かれたトルコ人(テュルク系の人々)の武官や宮廷人の姿は、サマルカンドの宮廷でのテュルク系の人々の優勢を物語るという。
こんなところに、トルコ人が。
トルコから行ったわたしにとっては、嬉しい驚きだった。だが、考えてみたら当然のことだ。現在のトルコ共和国に住むトルコ人の祖先は、中国西方の「キョク(元祖)トゥルク」と言われている。サマルカンドとトルコをつなぐ、結びつきの証拠だ。
わたしが本能的に、「ああ、トルコの文化の<もと>は、ここだったのか」とウズベキスタンのそこここで感じる場面があったのは、やはり、謂れがあってのことだったのだ。
* * *
サマルカンドといえば、町の中心にあるレギスタン広場のモスク群を飾る青いタイルが有名だ。その青の世界は、「サマルカンド・ブルー」と言われるのだそうだ。
だが、わたしにとってのサマルカンド・ブルーは、なんと言っても、この壁画の青である。
* * *
ウズベキスタンの文化の根の深さを感じた話が、まだある。
宿を探していた時に、古い歴史的建造物の中に泊まってみたいと思い、写真でここは古そうだ、と思ったところに予約した。思った通り、19世紀建造の古い住宅だった。
夕暮れ時に到着したのだが、薄暮のなかでメインの客間(現在は朝食室として使用)に入って驚いた。ウズベクの伝統的な壁龕漆喰細工、トクチャバットだが、よく見ると、普通でない。これは、ヘブライ語ではないか?
驚いて宿の主人に尋ねると、よく知っているね、と言わんばかりの満足そうな顔で頷き、建物の歴史を話してくれた。この建物は、19世紀後半、サマルカンドに住むユダヤ人の精神的リーダーの住居だったのだそうだ。家は代が変わってもそのまま受け継がれ、その末裔から2003年に現在の主人が購入した時、ここはこのまま守っていこう、と決めたのだという。
精神的リーダーは、境界を持たない人だった。ハーン国からロシア帝国配下、ウズベキスタン社会主義共和国、ソヴィエト連邦の一共和国、と体制が変わり、人々のおかれる宗教的、社会的、思想的状況が変わっても、ユダヤ教、イスラーム教、ゾロアスター教、宗教を問わず、訪れる人に門戸を開き、人々が心を良い状態に保てるように、自らを捧げたのだという。
「この建物には、その、良い<気>が、今も宿っているんだよ。僕はそれを感じるんだ。だから、この建物は、守っていく」。
広間に書かれたヘブライ語は、祝福の言葉だという。
さまざまな民族が行き交い、交易を重ね、文化的、宗教的に混淆した地。1991年、共和国として新たに独立したウズベキスタンは、一気に資本主義の洗礼を受け、現在、精神的・経済的・物質的あらゆる面で激変しつつある。そんななか、数は少ないかもしれないが、ひとりひとりの個人が、国境や言語や主義主張を超えて、何か大切なものを守っていこうとする姿勢を見た気がした。それは、サマルカンドという地の生み出す、マジックだろうか。
* * *
ここまで書いておいてなんだが、じつを言えば、このアフラシヤブ壁画をどう思うのか、まだトルコ人の同僚たちには聞けていない。何故なら、講演であまりに面白すぎて、「全部見せるね」と約束した写真の、サマルカンドの部分には、行きつけなかったからだ。3時間喋って、ブハラまで行ったところで、電池が切れてしまったのだった。
レストランでワインを傾けながら、ビルゲに第二回めを約束したのはいうまでもない。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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