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はたもだせるか|心に響く101の言葉(4)

奈良の古刹・興福寺の前貫首が、仏の教えと深い学識をもとに、古今の名言を選び、自らの書とエッセイでつづった本書愛蔵版 心に響く101の言葉(多川俊映 著)よりお届けします。

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沈黙の意味

 戦後七十年も過ぎた。すでに戦中・戦後の体験が風化して久しい。が、その一方で、靖国問題が喧々諤々だ。

 国内の諸説ふんぷんに、近隣国の口出し――。近代史を避けて通りがちな日本と、その過去にこだわりつづけ、なお、それを政治カードとして利用する近隣国という構図だ。そんなかまびすしい状況では、亡き人々への供養も、じゅうぶんに果すことができない。

「黙禱」というのがある。考えてみれば、すばらしい祈りの方法である。主義主張の喧々諤々を、ともかくも一時停止。一同、黙(もだ)す中にこそ、亡き人々への弔意も供養も大きく成就するのだ。要は、死者と生者との、沈黙の共有なのだ。

 筆者は夏になると、日本戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』や、神坂次郎『今日われ生きてあり』を読み返す。前著のタイトルは、

なげけるか いかれるか はたもだせるか きけはてしなき わだつみのこえ

の短歌からつけられたという。このなか、「はた(それとも)もだせるか」の一句が、何とも重い。

二十三年世はままならぬ事ありと深く知りつつ糸を垂れたり
(井上 長〔ひさし〕)

 この人は、このように詠んで逝った。自らの運命を深い沈黙の内に受け止めたのだ。折にふれて、沈黙の意味を考えたい。

老院99の言葉2

多川俊映(たがわ・しゅんえい)
1947年、奈良県生まれ。立命館大学文学部心理学専攻卒。2019年までの6期30年、法相宗大本山興福寺の貫首を務めた。現在は寺務老院(責任役員)、帝塚山大学特別客員教授。貫首在任中は世界遺産でもある興福寺の史跡整備を進め、江戸時代に焼失した中金堂の再建に尽力した。また「唯識」の普及に努め、著書に『唯識入門』『俳句で学ぶ唯識 超入門―わが心の構造』(ともに春秋社)や『唯識とはなにか』(角川ソフィア文庫)、『仏像 みる・みられる』(KADOKAWA)などがある。

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