今宵の一杯はバーの街・松本で(長野県松本市)|ホンタビ! 文=川内有緒
かつて娘を妊娠していたとき、「出産する前にしておきたいことリスト」を作成した。「遠方の友人を訪ねる」や「星空を見にいく」などの長いリストの筆頭にあったのは、「バーに行く」だった。妊娠中にバーというのも妙なのだが、いかんせん私は、バーに行けなくなる未来が寂しくて仕方がなかった。冷えたフルーツカクテル、緊張感とくつろぎがブレンドされた空気、隣のカップルの秘密の会話、瞼を閉じてシェーカーを振るバーテンダー……、その全てが好きだった。
バーの扉は外の世界との結界である、と説くのは『バーテンダーの流儀』という一冊である。結界か──、なるほど。確かに扉を開ける瞬間、仄かな緊張感が立ちのぼる。今日はどんな夜になるのだろう。そう思いながら扉を開けるのだ。
ああ、久しぶりにバーの世界にどっぷりと心ゆくまで溺れたい。そんな思いを抑えきれなくなった私は、日本有数のバーの街、松本にやってきた。歩いていける範囲にいくつものオーセンティック・バーがあるなんて理想郷である。
最初に訪れたのは、今年25周年を迎える老舗「メインバー コート」だ。
結界となる重厚な扉の向こうには、三角屋根の天井とアンティークの調度品に囲まれたエレガントな空間が広がっていた。一枚板の長いカウンターの前には肘掛け付きのアンティークチェア。カウンターの向こうに立つ蝶ネクタイの男性は、店主でバーテンダーの林幸一さん。
『バーテンダーの流儀』には「薄暗い店内のカウンターに立つのは仏頂面したオヤジだ。(中略)本当は気さくで明るいお喋りでも、カウンターに入れば無口を装う」とあるが、林さんは堅苦しくない口調で、バーテンダーという仕事を語った。
「おいしいお酒をおいしい状態で召し上がっていただくこと。お客様が自然体で時間を楽しんだり、周りの人と会話をする雰囲気を作る。そのための技術と経験とサービスを身につけること。それがバーテンダーの仕事です」
言わずもがな、バーという非日常空間を演出し、一夜の全てを司るのがバーテンダーである。良いバーには良いバーテンダーがいる。それはもう間違いない。
1杯目は、林さんお薦めのベリーニを頼んだ。よく冷えた細長いグラスにフレッシュな桃とシャンパンの泡が混ざり合い、細やかな泡がグラスの中を上っていく。口に含むと、華やかな気分に包まれ、ああ、幸せ、とつぶやいた。ベリーニは、1948年にベネチアで生まれたカクテル。ルネサンス時代の画家、ジョヴァンニ・ベリーニの展覧会の時に作られたのが誕生の由来だそうだ。
「マティーニ」も「サイドカー」も、世界中のどこでオーダーをしても作れないバーテンダーはいないだろう。しかし、どんなスタンダード・カクテルもそれが生まれたときは誰かのオリジナル・レシピであった。誰かがその一杯を考えたのだ。
この一節のおかげで、全てのカクテルには物語があり、遠い国から旅してきたことを改めて思い出した。だからこそバーは非日常なのかもしれない。まるで旅のように。
次に訪れたのは、開店して7年の「エントランスバー ポーター」。店内はほんのりと明るく、欅の一枚板のカウンターを和のテイストの照明が照らしだす。バーテンダーの佐藤利克さんは、親しみやすい口調でバーの魅力についてこう話した。
「バーの魅力は、余計な雑音がないところだと思います。女性がおひとりで静かに涙をこぼしながら飲んでいらっしゃることもありますよ」
その人にとってここは、とても特別な場所に違いない。そんなバーと出会えたその人が羨ましかった。ちなみに私が妊娠中にバーに行った時、さすがに泣いてはいなかったけれど、ライフスタイルの変化に戸惑いつつ、これが最後だから、と何杯もノンアルコール・カクテルを頼んだ。おなかが膨らみ、明らかにバーという場に不似合いな私に、ただ何も聞かずに飲み物を静かに出してくれたバーテンダーの心遣いを思い出した。
さて、今夜の2杯目はギムレット。一説によれば、イギリスの船の上で生まれたカクテルだとか。長旅をする乗組員のビタミンC不足を心配した医師が、壊血病を防ぐためにジンをライムで割るよう提案したというのが言い伝え。
カクテルグラスに口をつけると、キリリとした飲み口の中に、森のような香りがわずかに漂った。良薬口に苦しと言うが、ずいぶん美味しい薬であ
る。
ちょっと酔っ払ってきたので、今夜の締めとなる3杯目を頼む。
バーでの1杯目はロングドリンク、2杯目でショートカクテル、3杯目でウイスキーなどスピリッツ系のストレートというのが、ある種の定石だ。この順に飲むと少しずつアルコール度は強くなり、液体としての分量も少なくなっていくので胃にも負担がかからない。
なにかお薦めのウイスキーを、と佐藤さんに伝えると「それでは、越百はいかがですか?」とニコッとする。中央アルプス山系の標高の高い場所にある蒸溜所で造られているそうだ。
お願いしますと答えると、佐藤さんは丸くて大きな氷を取り出し、それをさらにナイフで丸く削っていく。美しい手捌きを見ながら待つ時間も好きだ。
今宵も世界のどこかのバーで、知らない誰かがウイスキーのグラスを傾けているのだろう。その人たちに会うことは決してないけれど、一杯のお酒を飲むことで、知らない誰かに出会えたような気がしてくる。
どんなに会いたいと思っても会えぬ人がいる。別れようとして別れられぬ人もいる。結ぼうとしても結べぬ縁も、切ろうとして切れぬ縁もある。バーのカウンターでは色々な縁が交差する。(中略)それは多分、バーだけが持つ暮色のような薄い闇のせいかもしれない。
グラスの中に広がるのは、琥珀色の宇宙。そこに浮かぶ氷は、闇に浮かぶ地球のように煌めいている。
これが今日の最後の一杯だから、ゆっくりと味わいたい。バーという小さな宇宙の物語が、グラスの中に浮かんでいた。
文=川内有緒 写真=荒井孝治
出典:ひととき2023年9月号
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