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応挙に描いてほしかった保津峡 金子信久(日本美術史学者)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え、「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2021年2月号「そして旅へ」より)

 兵庫県の日本海側、香美町(かみちょう)に、応挙寺と呼ばれる大乗寺がある。18世紀、江戸時代中期の京都の画家、円山応挙とその一門が描いた多くの襖絵(ふすまえ)などが伝わる寺である。

 その大乗寺から太平洋側へ出るには、京都への山陰本線と大阪への福知山線、2つのルートがあるが、大乗寺からの帰りに初めて山陰本線を利用した時のことだった。

 もうじき京都という辺りでトンネルを抜けると、突如、険しい峡谷が見えた。岩が切り立った狭い谷を流れる川を、列車は橋を渡って瞬く間に通り過ぎ、再びトンネルへ。突然の鮮烈な光景が、短い動画のように目に焼き付いた。ところが少しすると、まったく同じような光景が現れて目を疑った。そして、更にそれがもう一度繰り返されたのである。変な夢を見たような感じがした。

 今ならすぐにネットで調べるところだが、そういう機器など持っていなかった頃のことである。後で地図を見て、そこが、応挙も描いたことのある保津峡(ほづきょう)だとわかった。保津峡は、応挙の生まれた亀岡から、山を越えて京都の町へ入る、その間にある峡谷である。

 地形を想像していただきたい。何度も蛇行する保津川を串刺しにするように、まっすぐに鉄道が敷かれているのである。それゆえ車窓からは、まるでシュールな夢のような光景を目撃することになる。面白い地形に面白く線路が敷かれたものだ。鉄道は、時に妙な景色を見せてくれるものだと感じ入った。

 この保津峡の通り抜けという、列車に乗る人にとって短く不思議な時間が終わると、やがて列車は竹林の中にある嵯峨野の踏切を過ぎて、間もなく京都の町なかに入る。応挙が住んだのは、今も昔も変わらない京都の中心地、四条通辺りである。

 そのアトリエで描いたであろう《保津川図屛風》は、重要文化財にもなっている最晩年の有名な作品だ。2つで1組となる屛風で、並べると横10メートル近くもある。

 そんな大きな空間に描かれているのは、岩と水の流れに、松の木が数本だけ。川幅はかなり狭く、実際の保津峡の様子を再現したわけではない。リアリティーの画家である応挙のこの作品での見せ場は、入り組んだ岩場の立体感と、そこを複雑に流れる水の勢いにある。

 迫力一杯の素晴らしい屛風だが、車窓からの保津峡体験をしてからというもの、もっと欲張りなことを考えるようになってしまった。応挙は、30代の頃に数々の実験的な絵画に挑んでいる。たとえば、淀川を京都から大阪まで船で下る時に見える景色を描いた巻物では、虫眼鏡がなければ見えないほど両岸を細かく再現している。高さ3.6メートルの滝の掛軸もある。部屋の中に掛けられるはずもなく、夏場に庭の木に掛けて深山の空気を味わうために描いた、巨大掛軸である。

 そんな実験的な作品のひとつとして、応挙に保津峡を描いてほしかったと思うのだ。30代の応挙が、もし山陰本線に乗って、私と同じ保津峡体験をしたら、一体どんなものを描いてくれただろうか。

文= 金子信久 イラストレーション=林田秀一

金子信久(かねこ のぶひさ)
日本美術史学者、府中市美術館学芸員。1962年、東京都生まれ。専門は江戸時代絵画史。『もっと知りたい長沢蘆雪 生涯と作品』(東京美術)、『江戸かわいい動物 たのしい日本美術』(講談社)、『めでる国芳ブック どうぶつ』(大福書林)など著書多数。

出典:ひととき2021年2月号


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