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日本最古の人工庭池の大覚寺大沢池と昭和を代表する作庭家・重森三玲|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京の魅力を伝える連載「偉人たちの見た京都」。第32回は斬新なデザインで知られ、昭和を代表する作庭家である重森三玲です。日本最古の人工の庭池であり、平安王朝の離宮の庭である大覚寺大沢池の見どころについて、独自の視点で語ります。

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日本で最も古い人工の庭池はどこにあるのでしょうか。飛鳥時代や奈良時代にも庭池はあったかもしれませんが、現存するものといえば、京都の洛西にある大覚寺大沢池おおさわのいけが挙げられるでしょう。一見すると普通の池のように見えますが、実はここは1200年の歴史のある平安王朝の離宮の庭なのです。

この庭池について、日本庭園史の研究家であるとともに、昭和を代表する作庭家であった重森三玲しげもりみれい(1896~1975)が、亡くなる直前に上梓した著書『京の庭を巡る』の中で次のように紹介しています。

重森三玲

京都の西郊を巡るついでに、大覚寺の東隣にある大きな池庭を一覧する。この池は、明治以後になって用水池として利用されたために、堤防が高くなり、池が深くなった。したがって、素人眼には池庭とは見えない。

しかし、この池は平安初期の弘仁初年に、早くも橘氏によって作庭されたのであるが、嵯峨天皇もここに行幸された。この嵯峨地方は古くから橘氏の領地で、池の北部には広大な御殿が作られた。今の大覚寺の二十倍もある大変な殿舎であったから、その南部に、あのような大池庭が作られたのは当然である。

大沢池の水面に映る紅葉が美しい秋 大覚寺提供

嵯峨天皇(786~842)は桓武天皇の皇子で、809年に即位した第52代天皇です。中国文化に傾倒していた嵯峨帝は、中国皇帝に学び、都の郊外に離宮の造営を発案。以前から気に入っていたこの地に離宮嵯峨院を造り、その際、中国の洞庭湖を模した人工池として、大沢池が設けられたといわれています。

「天子南面」という中国の原則にならい、嵯峨御所とも呼ばれた離宮の御殿は池の北側に南向きで造営されました。もちろん、建物はその後の兵火で失われて、現在は痕跡を残すのみ。大沢池の形状も作庭当初とは変っており、特に池の南側に続く単調な半円状の堤は、明治以後に用水池として改修された姿です。

南岸から見た大沢池

庭園が好きな方なら、重森の名前を目にする機会は少なくないでしょう。重森の作る庭は「力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水」が特色とされ、特にデザインの斬新さと独特な石の配置で人気を博し、近年、多くのファンが生まれています。彼は全国各地に多くの庭を作りましたが、京都市内にある代表作としては、東福寺方丈庭園、光明院波心庭、大徳寺瑞峯院庭園、松尾大社松風苑などが有名です。

重森は1896(明治29)年、現在の岡山県吉備中央町吉川(旧吉川村)に生まれました。若くしていけばなや茶道に親しみ、18歳で茶室も設計しました。1917年、画家を志して上京。日本美術学校で日本画を修めますが、全国から集まった俊英の才能に圧倒され挫折。その後、独学で庭園史の研究と作庭を学び始めます。また、勅使河原蒼風らといけばなの革新運動にも取り組みました。

昭和初期、社寺には建物の図面や資料は存在していても、庭園の史料はほとんどありません。このままでは庭園の研究は発展しないと痛感した重森は、全国の庭園の実測調査に乗り出す決意を固め、全国にある約300の名庭や古庭園の調査研究を開始します。その研究はやがて『日本庭園史圖鑑』全24巻の刊行(1936~1939)として結実。重森は日本庭園史に多大な功績を残しました。

庭園史の第一人者である重森は、大沢池の庭の特徴を専門家の目から次のように説明します。

悲しいかな、神泉苑しんせんえん*と共に、京都の誇る最も古く、しかも最も大きいこの池庭が今日では荒廃の極である。だが、この池庭を専門的に見ると、池庭の北部に庭湖石と伝承している岩島があって、この岩島は大きい立石に対して、小さな石を人文字型に添えてあって、「作庭記*」流であることがかる。

*神泉苑 京都市中京区にある平安京造営の際に作庭された宮中付属の禁苑(天皇のための庭園)
*「作庭記」 平安時代の11世紀後半に成立したという日本最古の作庭の理論書。作者は橘俊綱とされる。「枯山水」という語の初出文献。

池の北側には、大きな天神島と小さな菊ヶ島という二つの人工の島があります。その間の池中にある、水面にわずかに顔を出した石が庭湖石ていこせきです。中国の神仙蓬莱思想によれば、仙人の住む雲間に浮かぶ蓬莱山を象徴したものとされています。平安時代は池の水位が今よりも低く、もう少し形が見えたと伝えられます。

菊ヶ島と庭湖石

この庭の立石は巨勢金岡こせのかなおか*が立てたと伝承されるが、したがって、この池庭のできた時よりも遙かに降った頃に「作庭記」もできたし、石組が施されたと見るべきである。今日では池水中に隠れていた各二石の石組が数組たおれて直線状をなしているから、夜泊石の初期のものと見ることができる。

*嵯峨天皇没後の平安時代に活躍した宮廷画家。大沢池の庭との関係はよくわかっていない。

池中に組まれた石を岩島がんとうと呼び、岩島が直線状に並んだ列を夜泊石よどまりいしと言います。蓬莱島に向かう宝船を想像したもので、金閣寺庭園などでも見られます。

池庭の北方には、元の名古曾の滝跡があって、ここの三尊石組は、初期の姿をそのまま保存している。品文字配置の技術も力強く、この石組技術が昭和四十二年発見された麻訶耶寺まかやじ*(静岡県引佐郡三ヶ日町)平安末のものと似ていて、平安末期まで伝統をもっていることが解かる。

*浜松市浜名区三ヶ日町にある真言宗の寺院。石組で神仙蓬莱世界を表現した平安末期から鎌倉初期の庭園で知られる。

名古曾の滝は離宮嵯峨院時代の庭園に設けられた滝石組で、平安時代には広くその名を知られていた名勝です。滝水は早くに涸れていたようで、この滝を詠んだ平安中期の歌人・藤原公任ふじわらのきんとうの歌は、小倉百人一首にも採用され、あまりにも有名です。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ 

名古曾の滝跡

本来このような池庭は、池中に竜頭鷁首りゅうとうげきしゅ*の船を浮かべて、平安期の人々が詩歌管弦を催した庭である。今日も、春秋には竜頭鷁首の船が浮かべられて花見や月見が催されている。

龍頭舟 大覚寺提供
花見の様子 大覚寺提供

*船首にそれぞれ龍の頭と鷁(鷺に似た水鳥)の首とを彫刻した二隻一対の船。 天子や貴人が乗る。

大変結構なことであるが、乗る人々が現代人であり、詩歌を理解できる人がすくないのが残念である。船で沖に出るにしたがって、北東部の山々の姿が池中に反映する景は誠に美しい。現実の姿と、非現実の世界が池中に共存するところに、庭の本来の美が味わえるのである。

嵯峨院の頃には、この池畔で塩を焼き、その煙の池畔に霞む美景も賞されている。風流の心を失った今日の人々の鑑賞眼には最早もはや古昔の美は味わえなくなってしまった。

池畔に保存される鎌倉期の石仏群も見逃してはならない。傑出した石仏であることは、石造美術を愛する人々には直ちに首肯できるが、やはり合掌して仏の心に溶け込まぬと、本来の石仏の美には接することができない。

池の北岸、護摩堂の近くに、平安時代後期から鎌倉時代の作と伝えられる20基を超える石仏がひっそりと佇んでいます。由来や作者は知られていませんが、長年の風雪に耐え、時代の移り変わりを見てきたその姿は、言葉を超えた風格を感じさせます。

石仏群

序に大覚寺を訪ねて、桃山の諸建築や山楽さんらく*や始興しこう*を中心とする絵画、または嵯峨蒔絵の美に接する必要がある。時代が移るにしたがって、荒廃も大きいが、また別に誕生する芸術品も多いことは、何より嬉しいことである。

*狩野山楽 安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師
*渡辺始興 京都出身の江戸時代中期の絵師

嵯峨天皇の崩御した後、876年に離宮嵯峨院は寺院に改められ、大覚寺が創建されました。現在は真言宗大覚寺派の本山。 正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称します。明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇族が門跡(住職)を務めた門跡寺院でした。

現在の大沢池の庭は大覚寺に属しています。庭だけを巡ることも可能ですが、大覚寺もあわせて拝観するといいでしょう。大覚寺はかつて、南北朝対立の一因となった大覚寺統の本拠地として大いに栄えましたが、応仁の乱によりほとんどの堂宇が焼失。江戸初期になって、池の西側に伽藍が復興され、今日見られるような姿になりました。なお、大覚寺は、いけばな発祥の花の寺とされ、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもあります。

出典:重森三玲「大沢池の庭」『京の庭を巡る』 

文・写真=藤岡比左志

大覚寺
[所]京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
☎075-871-0071
[休]無休 ※寺内行事による
●お堂エリア
[時]9時〜17時(受付は16時30分まで)
※写経の受付は15時30分まで
[料]大人:500円 小中高:300円
●大沢池エリア
[時]9時〜17時(受付は16時30分まで)
[料]大人:300円 小中高:100円
[HP]https://www.daikakuji.or.jp/

▼関連書籍『京都 和モダン庭園のひみつ
三玲の孫にあたる作庭家・重森千靑氏が、京都に行ったらぜひ見てほしい“和モダン庭園"を選び、京都の庭園写真に定評のある写真家・中田昭氏の写真で解説しています。ぜひご一読ください。

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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