「先輩たちとの幸せな時間が30代への助走になりました」井上 順(俳優・歌手・タレント)
僕は3人きょうだいの末っ子で、ある日、知り合いの家に両親と遊びに行ったら、年上のお兄さんたちがバンド演奏をしていた。「テレビで見た世界だ!」と興奮して、学校が終わると毎日通うようになりました。それが「六本木野獣会」です。映画、テレビ、ファッション、いろんな夢を持つ若者の集まりで、田辺靖雄*さん、中尾彬さん、大原麗子さん、素敵な先輩たちがいました。俳優の峰岸徹さんは僕の兄貴分で、ご実家の有名料亭に行くとごはんが美味しくてね。幸せでした。
その頃の六本木は都電が走っていて、八百屋さんや魚屋さんの隣にハンバーガー屋さんがあったり、映画「アメリカン・グラフィティ」みたいな雰囲気もある街でしたね。それから16歳で「ザ・スパイダース」に入りました。当時はゆるい時代で、バンドにビジネスという意識はありませんでした。スパイダースを作った田邉昭知さんは、プレスリーみたいにスターがひとりで魅せる音楽じゃなく全員で歌うバンドをやりたいと考えて、メンバーに堺正章さんやかまやつひろしさんを入れて6人にし、どうせならラッキー7にしたいと、たまたま僕に声をかけてくれた。僕はおまけなんです(笑)。
すぐに売れたわけじゃないですよ。日本はまだ演歌、歌謡曲が主流で、2年ほどして「夕陽が泣いている」などの曲で人気が出て、ようやく僕らが出ているジャズ喫茶が満員になった。驚いたのは、ヨーロッパに武者修行に出て、パリやロンドンで演奏したりテレビに出たりして羽田空港に帰って来たとき。飛行機の窓の外を見たら「おかえりなさい、スパイダース」と横断幕を持ったファンの人たちがデッキに集まっていて、僕らが外に出たとたん「ウォー!」と地響きみたいな歓声が上がったんです。人気グループになったんだなと初めて実感しました。
スパイダースが解散したとき、僕は23歳でした。世の中はフォークとかポップスとか、新しい音楽を求め始めていた。個人の仕事も増え、みんなが前に進むための解散でした。でも僕だけは、解散しなくてもいいと思ってた。やっぱり僕はプロじゃないんだね。一番年下だから先輩みんなに優しくしてもらって、部活のノリで毎日楽しくてしょうがなかった。
幸い僕にも、素敵な仕事が来ました。「夜のヒットスタジオ」の司会です。生放送で演歌、歌謡曲、ポップス、全部ありで、お年寄りから若い子まで見られる。こんなすごい番組で司会ができたのも、相手役の芳村真理*さんがいてくれたから。真理さんの華やかな衣装にツッコミを入れると、絶妙なリアクションで応えてくれました。出演者は、僕がアナウンサーじゃなく歌手仲間で、気持ちがわかることを喜んでくれました。緊張している新人にも、リハーサルで会話しながら「本番ではこんなこと言うかも」と伝えておくと、気が楽になるようで。サザンオールスターズから「初めて『夜ヒット』に出たときの対応は忘れられません」と感謝されたこともあります。
力もない僕が芸能界でやってこられたのは、出会いに恵まれたから。それは「先輩を敬いなさい」と教えてくれた両親のおかげです。もっとも20代は毎日やること覚えることで精いっぱいで、30代になってやっとプロの入り口に立った気もする。それも僕らしいのかな(笑)。
談話構成=ペリー荻野
出典:ひととき2023年11月号
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