アンカラ建築見学旅行|イスタンブル便り
「先生、みんなで一緒にアンカラに行きましょうよ。わたしに任せてください。書類全部用意しますから、先生はサインしてくださるだけでいいです」
イスタンブル工科大学で教えている近現代建築史の講座のアシスタント、キュブラがそんなことを言い出したのは、3月の半ばだったか、終わり頃だったか。コロナがそろそろ下火になった今学期、イスタンブル市内で初めて計画した見学会の帰り道だった。街で実際に三次元の建築を訪問し、見る喜びを、学生と共有した火照りがあった。
「えっ? そんなことができるの?」
「できるんですよ、先生。研修旅行を計画できるのは、設計の授業だけじゃないんです。建築史でも、希望を出せば承認されるんですよ」
彼女は自信たっぷりにいう。わたしが所属するのは建築学部建築学科、そのなかでも、意匠や都市計画系の専攻では研修旅行が計画されているとちらほら耳にし始めた頃だった。
エフェソスの遺跡やアヤソフィア、世界遺産のセリミエ・ジャーミイ。トルコには、世界の建築史の代表作例が山ほどある。しかし大学で行われる建築史の講義は、実際に建築作品を訪れることなく済まされることが多い。ベテランの同僚、ゼイネップはこの状況に異議を唱え、彼女の「古代・ビザンティン建築史」の講義では断固として見学旅行を敢行する。キュブラは、そのアシスタントを務めたので、許可申請や事務の実際をよく知っていたのだ。
学生と一緒にアンカラ旅行。トルコの首都はアンカラである。オスマン帝国が滅びトルコ共和国が建国されたのは1923年。この時期は世界的にみても、近現代建築史の転換期である。その時期に建設された都市、アンカラを見ることは、イスタンブル中心になりがちな歴史観に別の視点を与えてくれるだろう。だが、パンデミックの間そんなことからも遠ざかっていて、なんだかとてつもない夢のような感じがした。
「だけど学生さんたち、いろんな環境の人がいるでしょう? 交通費や宿代はどうするの?」
最初に起こった疑問がそれだった。アンカラはイスタンブルから車で5~6時間。飛行機なら費用はもっと嵩む。それに、見学会とすると、一泊の必要がある。
「公的機関や財団が運営する学生用の宿泊所があるんですよ。一泊70リラ(700円)くらいです。朝晩の食事付きのところもありますけど、夜は自由にして、朝食だけの方がいいと思います。それに、交通費は大学がバスをだしてくれます」
なんとも太っ腹な話ではないか。物価高のイスタンブル、今日日学生が好むようなお洒落なカフェでコーヒーを注文すれば、一杯20~30リラはする。コーヒー2、3杯の値段なら、出せないことはないだろう。
だが、学生は行きたいと思うだろうか?
次の授業の時に聞いてみた。学生諸君は大興奮、ぜひ行きたいという。そこで、必須ではなく希望者のみ、ということにした。わたしの授業では、毎週のテーマに合わせて学生が予習し、グループ発表をすることにしている。その発表を、現地でやろうという趣向だ。だから行き先は、学生たちに決めてもらうことにした。
キュブラはテキパキと事務手続きを進め、「先生これを学部長秘書に提出してください」だの、「先生これにサインしてここに提出してください」だの、ビシバシと指示が飛ぶ。それに従ってメールを送ったりしているうちに、大学からバス支給の正式許可が出た。そして、ほんとうに実現したのである。
出発の前の週、キュブラは言った。「集合は朝7時半です」。そんな早い時間に大学まで学生は出てこれるのか? 心配になって尋ねると、「見学の予定があるので、遅れるわけにはいきません、時間厳守です」。イスタンブル工科大学、前身はオスマン帝国陸軍士官学校、というのを、なんとなく彷彿とさせる。
大きなバスが支給されたので、座席に余裕がある。他の授業を取っている学生や、専攻の同僚などに声をかけることにした。別の授業のアシスタントのネシェ、学生なども数人参加することになった。
さて出発。当日、運転手のイブラーヒムさんの隣に、若者が座った。運転助手なのかと思っていたら、以前にわたしの授業をとっていた学生だそうだ。遠隔授業の時代だったので、実際に会うのは初めてだった。サメット君、アンカラっ子なので、道案内を買って出てくれるという。なんとも頼もしいことである。サメットは、道中の道案内、ガイドだけでなく、手品まで披露して楽しませてくれた。日本にもこんな男子学生、いますよね。
途上の休憩時間。「先生、アンカラの国会議事堂モスクの見学なんですけど」。お茶を飲みながら、キュブラが申し訳なさそうに言う。以前から申請していたが、議事堂の見学解放の日程に合わないので却下されたという。
国会議事堂モスクは、1980年代の建造。メッカの方角を指す壁龕(キュブラ)部分がガラス張りになっており、その先に糸杉が一本植えられていることで有名な作品だ。政教分離のトルコの国会を象徴するモスクとされる。わたし自身も、以前東京で行われたある展覧会で、中東全体の近現代建築史名作50選を選んだ時、この作品を入れた。建築家は、ベフルーズ・チニジ。
「残念だけど、仕方ないわね、他にもたくさん見るものあるから、他に行きましょう」
するとひとりの女子学生が、遠慮がちにやってきた。
「先生、アンカラで、国会議事堂モスクに行きますか?」
事情を話すと、彼女はこう言った。
「ご覧になりたいなら、お手伝いできると思うんです」
なんでも彼女の伯父さんは、国会議事堂警備の最高責任者なのだという。電話をしてもらうと、すぐに返事が来た。「お待ちしております」。
まるで魔法のようである。
* * *
予期せぬ出来事は続く。
アンカラで、学生に見せたいものはもうひとつあった。アンカラ大学文理学部、日本でも滞在したドイツ分離派の建築家ブルーノ・タウトの作品である。ブルーノ・タウトは日本と共和国初期のトルコをつなぐ建築家として、授業でも強調して話をする。
タウトは、ナチの台頭したドイツから日本へ移住し、3年のちトルコ共和国建国の父、アタチュルクの片腕として迎えられた。アタチュルクの死後、祭壇カタファルクを設計し、それが祟ったのかその1ヶ月後、自らも亡くなった。イスタンブルの国葬墓地に葬られている。アンカラ大学文理学部は、タウトのトルコでの代表作だ。
キュブラが書類を用意してくれて、あらかじめ申請を出しておいた。だが、却下の返事が来たという。
再びアンカラへ向かうバスの中、急に思い出した。アンカラ大学文理学部には、日本語学科がある。まだトルコへ留学する前、旅行で初めてアンカラへ行った時、この建物を見に行くと、知らない人から呼び止められた。日本語学科まで連れて行かれて、そこの教授と日本語で話をした。今は世代交代したが、現在の学科長メルトハン教授は旧知の仲である。
携帯電話番号を探したが見つからない。バスの中で、Eメールを書いた。20分後お電話をいただき、電光石火で学部長から許可が出て、見学できることになった。なんという僥倖!
後日、イスタンブルに帰ってから同僚にこの話をすると、「トルコへようこそ!」。怪訝に思って問いただすと、「トルコではね、間に人を挟まないと、物事が進まないんだよ」。
これは逆に言えば、間に然るべき人を挟めば、すべてうまくいく、ということでもある。それにしても、こんな幸運はあまりないだろう。
* * *
到着後、迎賓館アンカラ宮、初代トルコ大国民議会、農業銀行、労働銀行など、共和国初期の主だった建物を歩いて見学し、再びバスで国会議事堂へ。
連絡の行き届きようは素晴らしいもので、門から警備の係員が同乗してバスで構内へ乗り入れ、降りたところで出迎えられた。
「ようこそ! ようこそ!」
ずらりと並んだ係員の方々の奥から、件の学生の伯父上が出てこられた。
「お出迎えありがとうございます。イスタンブル工科大学の近現代建築史の授業を担当するジラルデッリ青木美由紀です。本日は国会議事堂モスクの見学を受け入れてくださり感謝いたします」
驚きを表すまいとしているのがわかって、微笑ましく感じた。トルコの国立大学の見学旅行で、国会議事堂を訪れる。その引率が、日本人なのである。
当初の計画ではモスクだけの予定だったが、国会議事堂の建物も見せていただけるというので、ありがたく受けることにした。議事堂内での討論の様子まで、特別な傍聴席から観覧させていただいた(撮影禁止なので写真はない)。建築家はドイツ人のクレメンス・ホルツマイスター。これもトルコ近代建築史の代表作である。隅々まで、トルコ産の材料を使用することに心が砕かれたという。1940年代の美学と、手仕事の美しさが、教科書などで見る写真だけではわからない部分である。
先年のクーデタの際に爆撃されて、議事堂の状態が心配されたが、破壊されたのはほんの一部で、現況は問題ない。一部、破壊の状態が見られるようガラス張りになっている。
* * *
そして日が暮れる頃にたどり着いたアンカラ大学文理学部。
階段を登っていくと、「学部長室」と書かれた扉の脇の壁に、ブルーノ・タウトの肖像写真が掲げられていた。
「建築家の写真があるなんて、見たの初めてです」
キュブラが感激したようにいう。
建築家の仕事に敬意を持って保存する姿勢は、細部までオリジナルを崩さず大切に手入れされている様子にも見て取れた。建築保存といっても、昨今、形だけを残してオリジナルの材料や手仕事の部分は廃棄される例が全世界で多々あるが、その点、さすが文理学部である。日本でもトルコでも、伝統やそれに培われた手仕事をことに大切にしたタウトの作品だけに、その意味は大きい。
写真や資料で何度も見ているし、わたしにとっては再訪である。だが今回、20年ぶりに新たな発見があった。有名な、螺旋形の階段手すりや随所の細部以外にも、天井の意匠、空間の区切りかたなど、随所に日本の記憶を見つけたのだ。建物に実際に足を運ぶこと、その場所に行ってみることの意味を、改めて考えたのだった。
* * *
翌朝の訪問予定はイタリア大使官邸である。
前夜、自由時間にナイトクラブへ繰り出した学生たちもいたようだが、眠い目をこすりながら全員時間通りにバスに乗り込んだ。
前日、イスタンブルで授業のあったパオロ騎士が早朝飛行機で合流、大使館邸に向かう。なんとイタリア大使がご夫妻で直々に出迎えてくれた。パオロ騎士の面目躍如である。
首都アンカラの建設のピークは1930年代。小さな田舎町が、首都として建設された。首都といえば、外国大使館の存在は欠かせない。イスタンブルにあったオスマン帝国時代の各国大使館は、新共和国となって、徐々にアンカラへ引っ越した。イタリアは割合早い方だったが、日本はアメリカ、ベルギーとともに一番遅かった方で、興味深いことに日本政府がイスタンブルに大使館の建物を購入したのは、なんと共和国になって以降の1928年のことだった。
アンカラは本当に首都として存続するのか? 文書を見ると、各国大使館は、判断しかねていたようである。600年強続いたオスマン帝国と、帝都イスタンブルの存在はそれだけ大きかった、ということなのだろう。
最新の建築もスケジュールに入れたい、という学生の希望から、2021年竣工の大統領交響楽団コンサートホールを見学し、残りの時間は出発まで自由行動とした。
折しもトルコの若者の日の祝日だったので、アタチュルク廟へ詣でたいという学生、中心街ウルスを散策したいという学生、キュブラとわたしはパオロ騎士、数人の希望者とともに旧市街アンカラ城周辺を散策して帰路に着いたのだった。
* * *
トルコの詩人 ヤヒヤー・ケマルの詩に、アンカラを詠んだ有名なくだりがある。
試験だったり、事務手続きだったり、アンカラ行きは退屈な理由ばかりだった学生時代、この一節にとても共感していた。だが今回は、これを裏切る楽しいアンカラ訪問だった。授業時間だけではできないアシスタントや学生一人ひとりとの何気ない会話、それぞれの生活や性格がほんのひととき垣間見られて、面白かったのである。願わくば、学生諸君にとってもそうでありますように。
この原稿を書いている現在、トルコでは学年末試験が終わり、採点期間中である。そろそろ夏休み――。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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