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東京 五里霧中|土屋賢二(哲学者・エッセイスト)
各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただくエッセイ「あの街、この街」。第3回は、哲学者であり、ユーモアあふれるエッセイストでもある土屋賢二さんです。東大入学時、岡山から上京した土屋さんが直面した困難について綴って頂きました。
いまから60年前、大学に入学したころ、東京は遠かった。住んでいた岡山から東京まで新幹線も特急もなく、急行で14時間もかかった。
東京の情報もほとんどなかった。『東京だよ、おっかさん*』という曲から、二重橋だか二十橋だかが、どこかの川にかかっているという知識を得ていた程度だった。
*1957年に発売された島倉千代子のヒット曲
東京に住む人にも、岡山に関する情報はなかった(いまとほぼ同じだと思えばいい)ため、店で「これなんぼするん?」と格調高い岡山弁で聞いても通じない。まるで外国だった。
駒場寮*に入ったが、同じ岡山の高校から入学した男が夜な夜なわたしのところへ来ては「淋しいよ〜 、家に帰りたい」と言って泣いていたほど、孤独感をつのらせていた。
*東京大学駒場キャンパスにあった学生寮。老朽化等のため2002年に廃寮が完了し、その跡地には図書館などが建設されている
わたしは入学直後から軽音楽研究会に入り、バンドに加えてもらおうと本郷の東大の練習室に通っていた。駒場寮から本郷まで通うのは大変だった。
高校まではロクに電車に乗ったことがなく、移動手段はもっぱら自転車だったから、電車に乗るだけでも難事だった。その上、人混みが苦痛で、電車が混んでいたら失神しそうになる。わたしが19世紀の貴婦人だったら確実に失神していただろう。
教えてもらった本郷へのルートは、井の頭線で渋谷駅に行き、そこから山手線で代々木駅まで行って総武線に乗り換え、御茶ノ水駅で降りて、バスで本郷に行くという複雑なルートだった。地下鉄を使えばまだ簡単だったと思うが、地下鉄に乗ると気持ちが悪くなったから、それが唯一の利用可能なルートだった。
最初は何とか行って無事に帰ることができた。いまから考えるとビギナーズラックだった。最初は奇跡が起きるのだ。奇跡が起きなかったら、帰ってくることができず、いまごろ、山形の飲み屋街の裏通りでホームレスになっているか、信州の山奥にたどり着き、農業の手伝いから身を起こし、農産物の流通に新機軸を打ち出して財をなし、東京に本社ビルを建てるために上京したきり、行方不明になっているかだ。
それというのも、当時はスマホもなければ地図もロクになく、地図や路線図があっても、知らない駅名ばかりで役に立たない(まったく知らない国の路線図を見てもわけが分からない。それと同じだ)。
さらに悪いことに、当時は高度成長期でスモッグがひどく、夜空に星が見えないから方向が分からない。星が見えてもどうせ方向は分からない。方向が分かっても、どっちの方向に進めばいいのか分からない。何重にも不幸が重なっているのだ。
すべて順調だったとしても、わたしは方向感覚に若干の問題があり、いまでも吉祥寺と下北沢と明大前がはっきり区別できない。それどころか、自分の住んでいる家の間取り図を描くこともできない。だから地図を作る人がいることが信じられず、伊能忠敬が作った日本地図をはじめ、現在存在する地図は、だれかが勝手に想像で描いたに違いないと思っている。
本郷までの行き帰りに成功したことに自信を深めたわたしは、2回目の帰り、御茶ノ水駅から下り電車に乗ると、停車する駅が前回と違うことに気がついた。いつまでたっても代々木駅に到着しない。一体どこに消えたのか。しかも停車するのは「中野」とか「高円寺」とか、存在することすら知らなかった駅だ。
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右側奥の黄色のラインの車両は総武線
どこかで間違ったと思ったわたしはあわてて降りた。見知らぬ土地で、大きくて重いギター(バンドでギターを担当するつもりだった)、しかもロクに弾けないギターをかかえ、混んだ電車で死にそうになりながら、地上に存在することも知らなかった駅で途方にくれたとき、火星に一人取り残されたような、このたとえが分かりにくければ、俊寛が島流し*にされたときのような、さらに分かりやすく言えば、イノシシの背中から地面に落ちて途方に暮れているダニのような、寂寥感に襲われた。
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三島村硫黄島の俊寛像。僧・俊寛は、平家打倒の計画に
加わったとして流刑となった。恩赦がだされ他の2人は
赦免されたが、俊寛のみ島に取り残された。
写真提供/鹿児島県三島村
それからもてる知恵を総動員して、代々木まで引き返した。賢明な判断だった。そのまま「どこかに着くだろう。あわてずとも、人間到る処青山あり*」と思って乗り続けていたら、いまごろ山形の飲み屋街の…(略)…と、結局、行方不明になっていただろう。
*江戸末期の僧・月性による漢詩。人間、どこでも骨を埋められ、故郷だけが死に場所でない。志を達するために故郷を出て大いに活躍するべきであるという意
何とか寮にたどり着いたときは、疲労困憊で寝つけず、同室の先輩が熟睡しているのを無理やり起こしてトランプの相手をしてもらった。こうして先輩も被害者になったのである。
いくら方向感覚に問題のあるわたしでも、これだけ痛い目にあえばさすがに学習する。その後、5回ほど本郷に行ったが、間違えたのはわずか2回だった。
それ以上は本郷に行くことはなかった。バンドのメンバーになる自信も、電車を自由に乗りこなす自信も失い、そこから回復できなかったからだ。心身の消耗は激しく、寿命を1時間は縮めたと思う。
文・土屋賢二
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土屋賢二(つちや・けんじ)
1944年岡山県生まれ。東京大学文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。お茶の水女子大学名誉教授。専攻はギリシア哲学、分析哲学。2020年には、週刊文春の長寿連載「ツチヤの口車」をまとめたエッセイ『無理難題が多すぎる』が本屋大賞の発掘部門を受賞。難しい時代に、ユーモアを交えたエッセイを通して「そんなに頑張らなくていい」と思わせてくれる点が評価された。
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