【鎌倉紀行】ほほえみの美仏に会いに行く(案内人・山本勉さん、旅人・みほとけさん)
地域のシンボル
白衣観音像 大船観音寺
新緑の芽吹きが朝露を弾き、きらきらと光が反射する。むせかえるような土と緑の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、急坂の参道を一歩一歩踏みしめる。空を仰げば、ひょっこり現れる真っ白な観音様。
「あら、いらっしゃい」
そう言わんばかりの大きな観音像が、気さくなほほえみを湛えながら参道を上る人々を見守っている。
「大船観音はもう、モノマネ済みです」
白い衣を被ると綺麗に盛れるんですよね、と笑いながら話すのは仏像大好き芸人のみほとけさん。メディアや自身のSNSで仏像愛を発信するだけでなく、仏像になりきる「仏モノマネ」も披露している。身近な素材(カーテンや割り箸など)を使いつつも仏像を詳細に観察し、ポーズ、髪型、表情などできる限り正確にマネている。ファンのみならず僧侶や研究者からも「いいね!」をもらうことが多い。その横でじっと目を凝らしながら観音像を仰ぎ見る紳士は、山本勉さん。日本美術史の研究者で「鎌倉国宝館」の館長も務める。みほとけさんと山本さんはすでに顔なじみ。イベントで何度か共演し、個人的にも仏像の情報交換をする間柄だ。
グローバルな雰囲気
「仏像らしいおごそかな雰囲気というよりは、親しみやすい美しさです。なんだか西洋っぽい感じもします」
そう言いながら、みほとけさんは観音像の顔を指し「二重まぶたの仏様って、めずらしいですよね?」と山本さんに確認する。
「はい、あえてそうつくっていると思います。大船観音が白衣観音であること、そのお顔がグローバルな雰囲気をもつことには大きな意味があるんです」
今でこそ地域のシンボルとして愛される観音像だが、その完成まで紆余曲折を経ている。1929(昭和4)年に日本一大きな観音立像(東大寺大仏の2倍の高さ!)を建立しようと計画されたが、地盤がやわらかく全身像の大きさに耐えきれないことがわかり半身像に変更。ところが像の輪郭だけできたものの、資金面で行き詰まり5年後に工事は中断されてしまう。そこから23年間、未完成のまま放置されることになったのだ。戦後の1954(昭和29)年に修仏工事がスタート。3年後、ようやく完成に至った。
「つまり再興したときの時代を考えると、戦争の犠牲になった世界中の人々を慰霊したいという願いが観音建立に込められていたはずです。だからこそ観音様のお顔を、額から鼻へつながっているような人間を超えた形にすることで、人種を感じさせないグローバルな姿にしたのでしょう。二重まぶたにも、あえて日本人的に見せず、エキゾチックにしようという意図を感じます」
そう山本さんは言いながら、再び観音像を見つめる。確かに白衣をまとう姿は観音であり、聖母マリアのようにも見える。人種も、国籍も、宗教の垣根さえも超え世界中の人々を救ってくれる。大船観音は、ボーダーレスでグローバルな存在としてつくられたのだ。
「なんだか観音様がそよ風に吹かれているように感じられます。白衣のひだがふわっとしているからでしょうか」
目を細めながら少し眩しそうにみほとけさんはお像を見上げる。
「衣もそうだけど、よく見てみると首飾りについている鈴の向きがいろいろでしょう。内向き、外向き、斜め向き」
山本さんの指摘に、目を見開き興奮した様子のみほとけさん。
「確かに鈴が揺れて見えます。鈴の音が聞こえてきそうですね」
広い境内は小さな子どもを連れた家族が多い。厳かな参拝というよりは気軽に遊びに来たという雰囲気だ。「かんのんさま、おっきいね!」とはしゃぐ子どもの声に自然とみんな笑顔になる。大船観音は街の人気者。
「観音様もお地蔵様も、仏教のことをよく知らない人からも好かれていますよね。それらも日本の仏教のひみつです」と山本さんはニコッと笑う。
これから始まる鎌倉旅の最初に、大船で「今」の仏像を見る。鎌倉時代の人々はどんな気持ちで当時の仏像を見上げたのだろう。仏への思いは時をつなぎ、ほのぼのとした笑顔で大船観音を囲む現代の人々のなかにも息づいていた。
――この続きは本誌でお読みになれます。山本さんは「鎌倉(の仏像)らしさを一言で言えば、“自然”」とお話されます。これに対して「鎌倉時代の仏像は本当に風が吹いていて、衣がなびいている感じがする」とは鎌倉出身のみほとけさん。先行きが不透明でまだまだ心にすきま風が吹くような気持ちになることもある昨今。鎌倉の海を眺めながら、やさしくほほえむ仏像たちを見つめ、心穏やかなひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。
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案内人:山本 勉 旅人:みほとけ
文:渡海碧音 写真:根田拓也
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