アガサ・クリスティ、オリエント急行とイスタンブル|イスタンブル便り
一度だけ、本物の「オリエント急行」を見たことがある。
イスタンブルに留学してきて間もない頃(だから30年くらい前の話だ)、新聞記事を読んだ。あの「オリエント急行」が、イスタンブルにやってくる。なぜ興奮したのかというと、 もともとの「オリエント急行」は、とうの昔、1977年に運行が廃止されているからだ。それを、ヴェネツィアからイスタンブルをつなぐ、「シンプロン・オリエント・エクスプレス」社が特別運行をすることになったのだ。
その日、勇んでシルケジ駅に向かった。
イスタンブル・ヨーロッパ側の(当時の)メインターミナル駅だ。「オリエント急行」の終着駅だが、イスタンブルのひとびとにとっては「ヨーロッパへの玄関口」だ(この駅の建物の意匠が、旅行者の視点によって「オリエント風」であることは、前回書いた)。
報道陣、一般の鉄道ファンに混じってわたしもそこにいた。到着と同時に、トルコ軍楽隊、正確にいえば、古式ゆかしい衣装を着たオスマン帝国軍楽隊が楽曲を奏ではじめた。フェズ(赤いトルコ帽)を被り、和洋折衷、ならぬ、オスマン洋折衷のオスマン帝国末期の衣装の男女が出迎えた。
そのときの違和感を、今でも覚えている。
大正時代の「ハイカラさん」のカップルの背景で、安土桃山時代の扮装の楽隊の演奏。日本で言えば、そのくらいのギャップである。よくあるツーリスト向けのアトラクションといえばそうだが……。
* * *
そんな時代錯誤を、ほかならぬ自分がしていた。『オリエント急行の殺人』である。言わずと知れた、ミステリの女王、アガサ・クリスティの代表作。推理小説が好きな人、いや広く読書人にとって、イスタンブル、といえばまず頭に浮かぶのはこの小説、というひとも多いだろう(古典だから書いてしまうが、まだの人はここから先、ネタバレ注意)。
シルケジ駅のオリエンタリスト的な建築様式や、小説に出てくる伯爵夫人やらギリシャ人医師やらの設定から、オスマン帝国時代のように思い込んでいた。だが、小説が発表されたのはいつだろう? と調べて驚いた。なんと1934年。ベル・エポックすら過去のものとなりつつあるモダン・エイジ、トルコでは共和国となって10年が祝われた頃である。ガス暖房や電灯電話はもちろん、自動車も飛行機もある時代だ。
そんな時代に発表された推理小説『オリエント急行の殺人』で、名探偵ポアロはバグダッドからベルギーへの帰り道、イスタンブルに到着する。とするなら、到着したのはアジア側のハイダル・パシャ駅のはずだ。そして、投宿するのは「ホテル・トカトリアン」。ヨーロッパ側、ベイオウルのホテル密集地区にあった。
じつは名探偵ポアロが歩くイスタンブルは、作者アガサ・クリスティのイスタンブルと違う。クリスティの常宿ペラパラス・ホテルは、小説には登場しないのである。そして「ポアロの」常宿だったトカトリアン・ホテルは、ホテルとしての営業はないが、ベイオウル地区に建物だけはまだ残っている。
トカトリアン、という名前を聞けば、トルコ通ならわかるだろう。オスマン帝国臣民のアルメニア教徒だ。黒海地方の街トカットの人、という意味で、ルーツまで知れる。トカトリアン・ホテルは、もともとカフェ・レストラン「スプレンディード」として1885年に営業開始、その後1893年にホテルとして新築・再営業したものだ。建築家はアレクサンドル・ヴァロリー。母体がレストランだっただけに、ホテルになってからも、レストランのクオリティでは定評があった。
そこに、有力な対抗馬が現れた。1895年創業、クリスティがその部屋で『オリエント急行の殺人』を書いたといわれる「ペラパラス・ホテル」である。
クリスティは、1926年~32年の期間、このホテルにしばしば滞在した。ちょうど、最初の夫アーチーボルド・クリスティと離婚し、傷心の中東旅行で二度目の夫となる14歳年下の考古学者、ウィリアム・マローワンと出会い、電撃結婚した時期に重なる。マローワンはイラクのメソポタミア遺跡を掘った人物で、その意味でもクリスティは中東に二重に結びついている。『オリエント急行の殺人』の他にも『ナイルに死す』など、クリスティの作品に〈オリエント〉が登場する所以でもある。
ペラパラスは、「オリエント急行」を営業するワゴン・リ(国際寝台列車株式会社)がその株式の半分を保有した、直営のホテルである。1888年に営業が始まった「オリエント急行」の乗客を、ヨーロッパと同じスタンダードでもてなすためのものだった。開業の1895年当時、電気の使用が許された数少ない建物のひとつで、蛇口をひねれば暖かいお湯が出る、イスタンブルで最初の建物だった点で、トルコの生活史にとっても重要だ。この建物も、「トカトリアン」と同じ建築家、ヴァロリーが手がけている。
シリアの邸宅の内部空間に霊感を受けたオリエンタルな意匠は、ヨーロッパからの富裕層の旅情を掻き立てただろう。19世紀末に流行したシリア風の意匠は、イスタンブルの人々にとってもエキゾチックなのである。
こうしてみると、「オリエント急行」のイスタンブルへの開通は、イスタンブルという都市で起こったホテル競争の遠因ともなっている。現在も営業が続くペラパラス・ホテルは、 クリスティだけでなく数々のセレブリティのイスタンブルの宿となった。顧客名簿を紐解けば、アタチュルクからヘミングウェイ、ピエール・ロティ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、イラン皇帝ナスレッティン・シャー、イギリス王エドワード8世、トロツキー、アラビアのロレンス、アメリカの黒人女性歌手ジョゼフィン・ベイカー、アルフレッド・ヒッチコック、グレタ・ガルボからジャクリーン・ケネディまで、壮観である。
イスタンブルに初めて鉄道がやってきたのは1872年。
ヨーロッパからイスタンブルではなく、イスタンブルからアジア側のアナトリア方面へ向かう鉄道が最初だった。イスタンブルからバグダットへ、さらにカルカッタへと繋ぐ鉄道網の起点、その意味では大英帝国の3C政策、ドイツ帝国の3B政策とつながっていた。
前回少し書いた、オスマン帝国の鉄道の歴史のなかで、帝都イスタンブルへの敷設は意外に遅い。イスタンブルに鉄道がやってくる前に、アレクサンドリア・カイロ間(エジプト、1855年)、ルセ・ヴァルナ間(ブルガリア、1864年)、そして先月の話題のイズミル・アイドゥン、イズミル・カサバ間(トルコ、1866年)が建設された。イスタンブルは、やっとその後である。それは多分に、戦略安全保障上の問題が大きかった。東西交通の要衝の地、さらにいえば、戦略的重要拠点として、欧州列強に気軽に入って来てもらっては困る、そういう背景があった。
事実、ヨーロッパ方面からイスタンブルへの最初の鉄道、ルメリ鉄道が1883年にようやく開通した時、鉄道はイスタンブル市内に入ることは許されなかった。古代ローマのテオドシウスの城壁外、イェディクレ(「七つの塔」)要塞で乗客は全員降ろされ、泥濘のなかを、徒歩や馬車や驢馬や船や、各自財布に見合った方法で市内に入ることを強いられた。これには乗客から不満が寄せられたという。
それに解決をもたらしたのが、時のスルタン、アブドゥルアジーズ帝(位1861~1876)の有名な鶴の一声だった。
「通せ! 通せ! 必要とあらば、我が胸からでも通すが良い!」
難攻不落で世界に名を轟かせ、コンスタンチノープルの陥落(1543年)以来一度も破られたことのなかったテオドシウスの城壁は、こうして崩され、現在の路線が敷かれた。イスタンブルの都市の近代化の瞬間は、これだったのではないかと、密かに思っている。スルタンのこの決断に、伝統か近代化かに揺れたこの時代の苦渋を感じる。
1825年にストックトン・ダーリントン間を最初の鉄道が走って以来、英国をはじめとして、欧州各国で鉄道敷設が始まる。イスタンブルは、東洋への玄関口として、重要拠点だった。そのため、オスマン帝国に鉄道建設の話が持ち込まれるのは意外と早い。英仏独の鉄道敷設許可取り競争が始まる。最初に勝ち取ったのは、イギリスの会社だった。その意味でも、鉄道を利用したクリスティの中東旅行、イラクの古代遺跡を発掘した考古学者の夫マローワン、そしてその鉄道を舞台とした推理小説は、当時のイギリスの流行最先端だったといえる。
オスマン帝国から見れば、鉄道をはじめとする外国資本の参入は、のちのちまでオスマン帝国を苦しめ、さらには崩壊の原因となるのだが、その話はいずれまた、別の機会に。
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イスタンブルで鉄道の乗客たちが滞在した最新のホテル、ふたつのトカトリアン・ホテルと、ワゴン・リ直営のペラパラス・ホテルを設計した建築家アレクサンドル・ヴァロリーには、後日談がある。ヴァロリーは、もともとオスマン帝国臣民で、あとからフランス国籍を取得した、いわゆる「レヴァンティン(レパントの)」である。代々オスマン帝国に拠点を持つヨーロッパ起源の人々のことで、現代の国境や国籍に縛られず、多国語を話し、一族が世界中に散らばっていることが多い。オスマン帝国臣民でありながらヴァロリーのようにのちにヨーロッパ国籍を取得して消滅し、現代では希少種となってしまった。
そのヴァロリーの、パリのエコール・デ・ボザール(芸術学校)で勉強していた時の成績表を、フランス国立文書館で見つけたことがある。一枚のメモがあった。
「先生、某月某日、海辺にいたのは、授業をさぼっていたわけではありません。云々……」
ピンときた。現代の建築学生を相手にしているわたしは、似たようなEメールを受け取ることが、よくある。
しかしヴァロリーの残したペラパラス・ホテルの、人を幻惑するような空間を見るとき、真面目に教室に座って勉強しているだけではこういう美は生み出せないのでは、と、ほんのひととき考えたりするのである。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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