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川崎宿とウチナーの鶴見|新MiUra風土記
この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第26回は、三浦半島の北部・川崎市と横浜市の鶴見を訪ねます。
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川崎宿がことし起立400周年記念を迎えた。東海道五十三次の宿場は神奈川県内に9ヶ所あり、江戸の品川宿から多摩川を渡った最初の宿が川崎だ。
それに合わせたのか今秋、宿場のそばに25階建の川崎市本庁舎の建替えがされて、路面にはレトロな旧市庁舎を復元して高層棟との記憶をつなぎいち早く展望階が市民に公開された。
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まずは足下の旧東海道の川崎宿へ。
川崎駅前に近い旧宿場町。通りに風情のある趾を見つけるのは難しいが、観光案内所を兼ねた東海道かわさき宿交流館では昔と現代を対比させ、江戸期の川崎の礎を築いた田中休愚(1662~1730)、干拓と殖産の池上幸豊(1718~1798)から戦後の坂本九(*1)までが通史展示されている。とくに宿場再現のジオラマの店舗では、江戸に近い川崎宿、飯盛女のいる旅籠が往時を想像させる。
(*1)坂本九(1941~1985)川崎市川崎区生まれ。世界的に大ヒットした「上を向いて歩こう」はJR川崎駅東海道線と京急線川崎駅ホームの発車曲になっている。
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かわさき宿交流館の向かいの通りは、生麦事件直前に島津久光(1817~1887)が休憩した田中本陣跡があり、宗三寺(曹洞宗)の境内には宿場遊女の供養塔が建立されていて、なぜか安堵した(*2)。
(*2)本連載第11回「藤沢宿の飯盛女と『小鳥の街』」参照
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多摩川の六郷の渡しの堤を河口へ下ると、ぼくのお気に入りの建築物が健在だ。横浜関内の居留地外国人は江戸に入れず多摩川(川崎河岸)までしか遠出が許されなかった。生麦で死傷し逃れた4名は、ここを川崎大師までたどるつもりだったことを思い出した(*3)。
(*3)『生麦事件』上・下 (吉村昭 新潮文庫)
その川崎河港水門(1928年完成。国登録有形文化財)は運河・河港計画で近代化を成した川崎の産業遺産だ。異才の水運技師・金森誠之(1892~1959)による川崎名産のナシ、ブドウ、モモの彫刻意匠が愉しい。
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河岸のスズキ釣りを横目に最寄り駅の京急大師線港町駅へ、美空ひばりの歌『港町十三番地』の元になった日本コロムビア・レコードの工場があった場所。三浦の葉山町から移転した味の素の工場も並んでいて、宿場町から工業都市化へ進んだ川崎の表の貌だろう。
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川崎市は海から内陸へ伸びた7つの区からできている。宿場や川崎大師、競馬場やコンビナートがあるのは川崎区だ。川崎駅にいったん戻り反対側の西口へ。かつて東芝のブラウン管工場だったが、いまは巨大なショッピングモール「ラゾーナ」が建ち、周囲はまったりした住宅街になる。ここは幸区幸町、女躰大神の社の名にどきりとした(多摩川氾濫での女人柱伝説、転じて女丈夫・安産などの御利益があるとされる)。ニコニコ通りの寂れた商店街を抜けると、かつての南武線貨物支線の矢向駅から川崎河岸駅までの堤が緑地帯になり、ここにもう一つ好きな建築群がある。
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幸区河原町。まるで鉄腕アトムが飛び舞う、昭和のSFの巨大な未来都市のような白亜の県営河原町団地は、フェリーニの映画『8 1/2』(1963)にでてくるローマ郊外の都市エウルを思い出す(*4)。
(*4)河原町団地(1972~74)。東京製鋼跡地に約3,500戸を県・市・公社が建設。逆Y字形のデザインがレトロで新鮮。建築家・大谷幸夫(1924~2013)設計。東京大学の丹下健三(1913~2005)門下で広島平和資料記念館の設計に関わる。代表作は国立京都国際会館など。
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大規模な高層高密度市街地住宅地区としての開発ながら、広場や緑地、日照、防災は考え抜かれて、住宅棟の内庭はまるで東京カテドラル聖マリア聖堂(東京・目白)の内部のように荘厳ですらある。
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住民の高齢化が進んでいるらしいが、陽光に白光りするその姿からは黄昏は感じにくい。
さきの川崎河港水門が富国強兵の挫折した日本の川崎ならば、河原町団地は戦後の高度経済成長下の希望の町としての川崎だろう。
さて団地から多摩川の堤防に上がった。幸区戸手の「河原の街」と呼ばれた屋並は近年までわずかに見られたが、スーパー堤防の建設が進みタワーマンションが建ちはじめている(*5)。その風景は色褪せカラープリントだけに残された。そばのバス通りには小向日曜品売場や小向マーケットがそれを免れていて嬉しい。
(*5)『神奈川新聞』(2006年1月30日・朝刊)
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さて川崎市本庁舎にもどって、この11月に先行公開された展望台に登ってみた。いまどき25階では超高層とは言えないが、蛇行する多摩川を眼下にして、メガロポリス東京がパノラマに開き、反対の方角にわが三浦半島が伸びている。新市庁舎からの俯瞰は新鮮で、川崎がいかに京浜をつなげる要の町かを実感できた。
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そして思い出すのは、京急日ノ出町駅ホームに残る三浦半島のタイル絵だった。それは川崎、鶴見を北限にしているのだ。川崎市と隣り合う横浜市鶴見区一帯の外縁まではかつて武蔵国橘樹郡と呼ばれた。およそ6,000年前の古鶴見湾の海岸線は、三浦半島の東の付け根に見える。東京湾の川崎区から鶴見区潮田に至る海岸を川崎海岸と呼び、梨棚や桃畑をつぶし海を埋め立て工業化を進めてきた(*6)。そして三浦半島の歴史風土は縄文海進と地震の地殻変動、鎌倉幕府とペリー来航が造り上げたと思ってきた。
(*6)『川崎区の史話』(開館記念誌編集委員会 川崎市立川崎図書館)
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川崎の発展を支えたのは日本列島からの移住者だけではない。朝鮮半島や南米、沖縄諸島からの人々も多かった。なかでも沖鶴と呼ぶようにウチナーンチュ(沖縄の人)の日本最大のコミュニティーは鶴見区だという(*7)。
(*7)『ルポ 川崎』(磯部涼 新潮文庫)、『横浜・鶴見沖縄県人会史』(横浜・鶴見沖縄県人会編)、『川崎・鶴見・東京ウチナーンチュ100年沖縄思い遥か』(AWAWAの本)
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川崎駅からひと駅のJR鶴見駅で鶴見線に乗り換える。今秋鶴見区で第8回ウチナー祭が開催された(表紙写真)。
鶴見線浅野駅は、あの浅野総一郎(鶴見・川崎の運河・埋め立の臨港開発や浅野セメントを創業)ゆかりの駅。そばの入船公園での祭は2日間に渡り大盛況。帰りはウチナー鶴見の中心街の仲通の沖縄物産センターでNHK朝ドラ「ちむどんどん」のオキナワに浸る。ここはおきつる会館(鶴見沖縄県人会会館)にもなっている。
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この地区の氏神様は潮田神社で熱気ある氏子の潮田祭でも知られるが、リトルサンパウロのようなブラジルやペルーのスーパーや食堂もありラテンな人々のパワーも伝わる。
明治時代からの沖縄とハワイ・中南米と鶴見・川崎のウチナーンチュ移住のトライアングルは、三浦半島史を形づくるひとの営みが形成した別の”地層”だろう。ここでは多文化共生のダイバーシティが戦前から続いていた。川崎、鶴見を歩くと、ミルフィーユのような三浦断層の地形地質図がより厚みを増してきた気がした。
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文・写真=中川道夫
中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。
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