小説家・大佛次郎が金閣寺の庭を絶賛した意外な理由|偉人たちの見た京都
大佛次郎(1897~1973)は大正の末から昭和まで、約50年にわたり創作を続けた小説家・ノンフィクション作家です。15以上ものペンネームを使い分け、時代小説から歴史小説、現代小説、童話、さらにノンフィクション的な作品まで幅広いジャンルで執筆活動を行ない、1964年には文化勲章も受章した国民的作家です。
大佛は横浜市に生まれ、7歳の時に家族と共に東京へ転居します。外交官を志し、府立一中から第一高等学校、東京帝国大学法学部に進学。卒業後は鎌倉で女学校の教師として勤めた後、外務省の嘱託となります。かたわら、学生時代から海外小説の翻訳や創作を手がけていました。
1923年の関東大震災を機に、大佛は文筆に専念することを決意。職を辞して、旺盛な執筆活動を開始します。当時鎌倉の大仏の裏手に住んでいたことから、「大佛次郎」のペンネームを考案し、以降、これが主たる筆名となりました。1924年から始まった小説「鞍馬天狗」シリーズや、新聞連載小説「照る日くもる日」「赤穂浪士」が評判を呼び、人気作家としての地位を不動のものにしていきます。
1948年、大佛は代表作の一つとなった小説「帰郷」の連載を毎日新聞で開始します。敗戦後の日本を西洋の視点から見るという主題で、主人公の守屋恭吾を元軍人でヨーロッパを放浪してきた、故郷を捨てた異邦人として設定。この小説の重要な舞台として選ばれたのが金閣寺の庭でした。
美しい庭は京都にまだいろいろと在る。が、金閣寺のように人間臭くて、しかも俗でなく豪奢な感じのものは天下に類がなかった。桂離宮の透きとおって澄んだ明るさは別として、これは分解以前の生成の濁りを帯び、自らの重量に重たかった。あたりの自然が繊細で優雅なのと調和して建築も外観は軽やかなものだった。好みがどことなく日本人離れして豊かだった。
1950年に発表した随筆「金閣回顧」の中で、大佛は金閣寺の庭を「天下に類がない」と評します。
足利氏も四代目の、坂の頂点に登った時に築かれたせいもあろう。その後の日本の庭のように、茶がかって侘びたり、くすんだり、間違ってひねくれたりしていない。義満将軍の意欲を、まるごと素直に押出したような感じで、官能的にさえ見えたのが庭としてユニックだった。
庭に隠れた深い意味を求める人には、美が表面的で浅いと見られがちだが、この種類の癖のない華やかな庭は他に類例ない日本だ。その意味で金閣は珍重すべきであった。寺としてでなく将軍義満の別業に建てたせいもあろう。いっこう仏寺らしい影がなく、単純に明るく、よごれない目で物を見る人にはそのまま素通しに美しかったのである。
金閣寺は正式には鹿苑寺といい、臨済宗相国寺の塔頭寺院です。元は鎌倉時代の公卿・西園寺家の別荘だったものを室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘を造営したのが始まりとされています。義満の死後、遺言により禅寺となり、義満の法号鹿苑院殿にちなんで鹿苑寺と名付けられました。
金閣寺を象徴する建物・舎利殿「金閣」も、池泉をめぐる庭園も、三代将軍義満の時代に造られました。大佛はここで「足利氏も四代目の」と記していますが、これは夢窓疎石を勧請して鹿苑寺を開山した四代将軍義持のことを念頭においているのでしょう。
重要なのは、金閣寺の庭に対する評価です。大佛は、江戸時代以降に造られた庭に見られるような、茶道に影響された侘びや寂びがこの庭にないことを、「庭としてユニーク」と見ています。しかも、癖のない華やかな庭は他に類例がなく、単純に素直な目で見れば、寺らしい影がないことが美しいと讃えているのです。
この庭のことは、くどいまでに私は「帰郷」の中に描いた。永く国を放浪していて日本に無関心だった守屋恭吾が、帰国して来て急に惹き付けられた日本の、過去の最初の入口となるのには高踏的な苔寺でも竜安寺*でもなく、金閣寺の庭ならば素人なりに率直に受け取ることができると信じた。
そのため再三、この寺を訪れて覚書まで取ったのを、いまは、せめても幸せだったと考える。この一見平俗な庭を、あれだけ念入りに書いた小説は他になかった。夏の白昼に睡たそうに椅子に腰掛けて人を待っていた案内人も、垂木に映って揺れていた池水の光の影も、池の鯉が庭の水苔を箔のように浮き上がらせて泳ぎ回っている形も、なつかしいことである。
小説「帰郷」の中で、大佛は主人公に金閣寺の庭の魅力について、次のように語らせています。これは大佛自身の考え方と見ても、間違いではないでしょう。
異邦人となって了った恭吾には古い茶室の面白味がわからなかった。苔だけの西芳寺の庭や、竜安寺の石の庭は変っていて面白いし美しいと見たが、やはり簡素の味だの、草や木に愛着を寄せて生活の貧しさに堪えて来た人間の設計だと感じた。贅沢を悪徳として貧乏を美徳に算えて来た民族でないと、こんな清潔で美しい庭を考え出すわけのものでない。不思議なことだと思った。西洋人には、特殊な者でないと、この庭の美しさはわからない。西洋人の物の見方を知っている恭吾だからそう思った。(「帰郷」)
金閣寺の庭の美しさは西洋人も認めるであろう。あの庭には、人間臭いところが強い。日本的にひねったところがなく自由で闊達で明るい。あれだけ典雅でいて官能的な庭は他にないようである。水があり空を大きく取入れてあった。建物に金箔を置いた豪華な構え方も、日本人が造ったものとしては度を外している。つまり、この庭には貧しいところがないのだ。水墨の書や茶や禅の入って来る時代よりも以前の設計だったから、こうなったものだろうか?(「帰郷」)
大佛は金閣寺の庭に侘び寂びのような精神の奥底に訴えかける美ではなく、自由闊達で素直な人間臭い美しさを見たのでしょう。それはまさに西洋人の視点から見た日本であり、戦後の混沌とした時代にあって、日本の古い価値観を捨て、自由に明るく生きる新たな道の可能性を示唆しているようにも思えます。
冬に京都に来ていて、朝、目を覚ましたら雪と成っていたので、雪の金閣を見ようと同行の友人を床の中から誘った。出かけるころには雪がやみ、日がさして来て、寺に着いた時分には、地面からもとけて消えていた。雪は金閣の北側の屋根に残っているだけだった。
その代わり、いつもくすんでいて金色には見えない三階の壁面の箔が屋根の雪の補色で鈍い金色の光を放っていて、目が覚めるように美しかった。そして雪上がりの冬の庭の冷たい光は、枝はおろか松葉の一筋ずつまでも、くっきりと 池水に映していた。初刷で精巧な銅版画のように。
大佛が小説「帰郷」を連載していたのは1948年、随筆「金閣回顧」を発表したのは1950年7月。実はこの間に、日本中を震撼させた金閣寺放火という大事件が勃発していたのです。1950年7月2日未明、金閣寺の見習い僧侶の放火により、国宝の舎利殿(金閣)は炎上焼失してしまいました。随筆はまさに事件の直後に書かれていたのです。
大佛が「帰郷」の取材で金閣寺に足繁く通っていたのは事件前のこと。随筆にある冬の金閣寺訪問の時は、まだ昔の金閣が残っていました。そう理解して、この随筆を読むと、放火で失われた金閣への大佛の哀惜の念が強く感じられます。
金閣は事件から5年後の1955年に、焼失直前ではなく創建当時の姿に復元再建されました。金箔で覆われ鏡湖池に映る金閣は、今日も足利義満や義持が見た当時と変わらない美しさを見せています。
出典:大佛次郎『日附のある文章』「金閣回顧」
大佛次郎『帰郷』
文・写真=藤岡比左志
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