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【エッセイ風】クラムボンがなぜ笑ったかなんて知らないって言ってるのに

 6年生の国語の教科書に、宮沢賢治の「やまなし」が載っていた。

ひきの蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 
上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』

宮沢賢治『やまなし』

 口に出して唱えたくなるような、小さくてささやかな蟹の会話は、もともと響きがよくて知っていたけれど(Eテレ「日本語であそぼ」に古典を教わった世代です)、授業で取り上げられたとき、先生がクラスに言ったのが衝撃的だった。
クラムボンは、なぜ笑ったんだと思いますか? みんなで意見を行ってみましょう
わたし(心の声):「『知らない』って、蟹が言ってるじゃん」 

 小学生は想像力が豊かだから、ありとあらゆる背景考察のアイデアが出たんだったと思う。クラムボンが、蟹にはわからない思い出し笑いをしてた説。笑い玉(?)を飲みこんじゃった説。実は蟹にくすぐられていた説。
 そもそもクラムボンが蟹なのか、ほかの生物なのか、もはやその次元にもいないのかについても、書かれていない。ただ、かぷかぷわらったよ。なぜわらったの? しらない。
わたし(心の声):「知らない、じゃ不十分なのかな??

 国語の授業じたい普段の読書とはちょっと違って、「主人公が怒った理由う」「筆者が伝えたい思い」を前の文章から推理させたりする。受験になるともっと顕著で、行動や情景描写から示唆された「行動や感情の理由」を80字以上100字以内で記述しなければならなかったりする。晴れてきた夕空を見上げる主人公の様子から、「けがを乗り越えて、次のトーナメントではぜったに優勝しようと決意を新たにしている」なんてね。そりゃそうだけど、そんなルールがあてはまる小説はごく一部にすぎない。

 物語の好きなところは、世界のルールが著者にゆだねられているところだ。筆者が「太陽が月に一度しか昇らない」と書いたら、それがその世界のルール。重力がただしく働くかも、時間が直進するかも、約束されていない。「ある日空から猿の大群が降ってきました」と書かれたら、読んでいる人はそのルールに乗っからないといけない。ナンセンスなものほどそうだと思う。論理的な思考や因果律を封印するべき時もある。そのルールの中でしか表現できないことがあるから。
なぜ、空から猿が降って来たのだと思いますか?
 そっちのほうが、ナンセンスでルール違反だと思うのだけれど。
 こんな世界は狭義の「近代小説」にはあてはまらないのかもしれない。神話とか寓話のたぐいに近いのかもしれない。

 クラムボンがなぜ笑ったか、と答えは「知らない」でしかないと思う。
 物語の中で起こることを現代の自分の常識、という色眼鏡でしか見られないことは悲しい。わからないならわからないでいいじゃないか。なんでかな、しらなーい。一緒にかぷかぷ笑ってみればいいと思う。

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