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【エッセイ風】「趣味は読書」

 はじめましての『趣味』欄にしるすべき娯楽がみつからなくて、お決まりのように「読書」。それだけでは、いかにも取っつきにっくいから、申しわけばかりに付け加える「料理」「旅行」、リップサービスの「食べ歩き」。どれも深掘りされれば しどろ・もどろになるだけ。次なる『特技』、また頭をかかえて、本音を言えば「『趣味』の捏造」:
 読書が好きなのは嘘じゃないけれど、だれかと語り合う話の種になるかはまた別の話。だって流行りものにはここ十年無縁だし、文学賞の受賞作や映画の原作は多少袖を引くけれど、いつだってTo Read Listの二軍から浮上しないまま。手に取る本はといえばただ活字の漣に洗われたい時の短歌集や、息を止めながら眼力を虚空に収斂させて読み解きたい哲学書、理屈をあまりに足場からくつがえすものだから好き・嫌いのわかれるマジック・リアリズムやら何やら。かと思えばひと昔まえの本屋大賞から選んだ本を今さら手に取って、やっぱり凄い、と感じようにも周囲はすでに一周したあと。<Who’s in 2022?>
 物語に旬はあるものなのか。朝採れ野菜の新鮮さが、やっぱり持てやされるのかな。目新しさのくすぶったお話が見放されるのは、もったいない。社会情勢の一挙手一投足に反応する社説のたぐいならまだしも、お話は生まれ落ちた時代に左右されにくい部類だと思うのだけれど。時の経った本が廃れて思えるのは共感を求めすぎるからかもしれない。時代小説でもなんでも、現代のメンタリティーに基づいて描かれるものが多いから。それならいっそ、昔に書かれた本をできるだけ当時の言葉で読みたいと感じる。職場でのくわえ煙草文化とか戦争に向かう時期の動乱とか、令和の今では時代錯誤、不愉快、聞きたくないと感じる事柄も、その当時は目の前で起こる出来事だったのだから。少なくとも言葉じたいは古びないと、わたしは思っている。
 どんなに瞳を広く開けていても、ひとは見たいものしか見ないし、見られないのだよ。格言はちまたに溢れるけれど、ひとつわたしが経験知から編み出した結論は、「ひとは自分の見たことしか想像できない」ということ。この世のものならぬ奇想天外な時空を夢想しようにも、立ち現れてくるイメージは、じぶんがっているもの、見たことのあるもので形作られている。だから何を見るかは創作にとても大切だ。見るもの、読むものから始めて日常のバウンダリーを超えられればいい。ああ旅行に行きたい。

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