352 ルーチンに苦しまない、いい加減さ。
自分で課したことからの自由
以前にこんな記事を書いた。
そこにあまりちゃんと書いていないけど、いま自分で直面していることがある。それは自分が自分に課したルーティーンという名の固定化だ。
自分で課したことなのだから、もちろん自分の自由である。簡単に言えば、写真を撮るならスマホやカメラを一瞬でいいので固定(静止)させるべきだろう。その意味で、日々の行動にも、その瞬間瞬間に全部フローで流すのではなく、カチッと止めるところがあっていいのではないか。
少なくともルーティーンは(それがなんであれ)自分で課したことを成すので一種の達成感がある。やらないと気持ちが悪いのでやる。「やることはやったぜ」となる。「ちゃんとやってますから!」の「ちゃんと」なところだろう。
実はこのルーティーンもまた、自分の自由を奪う。毎日毎日、その課題を愚直にやっていくことも大切だから、そこで「なんでもかんでも自由にしろ!」とは言えない。カッチリしているところがあった方が、たぶんうまく行く。
だけど、その「うまく行く」は、もしかしたら生じたかもしれない飛躍を削ってのことかもしれない。ルーティーンにはハプニングが少なく(だから安心、安定なんだけど)、そこに飛躍を求める人はいないから。
ジャンプするとき、失敗の確率はとんでもなく高く跳ね上がる。ジャンプだけに。それは恐ろしいことだし、あまり頻繁に体験すべきことでもない。トム・クルーズだって毎日ジャンプしているわけじゃない。
そうして守られた中での安定した安心できる成果はとても大切。それがなければ、何事も成し遂げることはできないから。ネジを締めるところはちゃんと締めないと。かっちりはめ込むところははめ込まないと。だけど、「あれ、これでいいのかな」と疑問が浮かんだら即座に、「作業中止!」である。
ルーティーンを守りたいので、「中止なんてムリ」とやっちゃうと、もしかしたら得られたかもしれない飛躍を逃すこともあり得る。
このときの「自由」は、かなりエネルギーを使う。シンドイことだ。だって自分で決めて日々やると決めたことを粛々とやっている快感に浸っているのに、「中止、中止、やめろ!」と乱暴にストップさせるのだから。
止めるのは怖いから。
救いは「いい加減さ」
自分はどこまで許容できるのか。そのいい加減さを。
「ここで止めるなんて、そんなムチャな」と思いつつ、「ま、止めてもいいか」という感覚。リズムを崩す恐怖、安定と安心を奪われる恐怖。それを克服できるのは、たぶん、自分に多少はあるはずの「いい加減さ」だろう。
個人差の激しそうなこの「いい加減さ」は、たぶんどんな人も持ってはいる。だけど、そのカードを切らないように、教育によって訓練されている。あるのはわかっている、自分にもいい加減なところが。認めるのも癪だけど、間違いなくそこにある。ただ無視する。使わない。使ったら最後だから。築き上げた自分を失う恐怖があるから。
責任感の強い人ほど、このカードを切れない。無責任になれない。あるいは自分の負うべき責任を他者へおっかぶせることができない。
いや、だからそこに自由はないんだ。自分で決めたことかもしれないけど、それをやり続けてはいけないのかもしれないと思ったら、停止しなくちゃいけない。止まるためのちょっとした勇気といい加減さを持ちたい。
幸い、このnoteを読まれたら、私の中には大量の「いい加減さ」があることをご存知だろう。私はバサッと止められる。どんなルーティーンもパッと止められる。ああ、お酒は止められないけど。
いまは止める自由を話しているのに、止められない酒のことを持ち出すぐらいのいい加減さは、自分にとっては武器だと思っている(開き直り)。