67 いいニクの日に思う神と肉食
無宗教というより無神派だけど
日本では宗教は二の次、三の次となっていることになっている。というのも、いま私がタイトルに「神」を入れただけで、けっこうな違和感があるからだ。こういうタイトルをつけるからには、「おまえが神についてなにか言えるのか」といった疑問もあるし、「どの神の話?」といった疑問もある。
それに答えようとすると、文字数をたくさん使ってしまったあげくに「自分でもよくわからないです」となりそうなので、ここでは避ける。
つまり、神、仏、宗教について正面から語ることは、避ける。避けてもいいことになっている。
一方、文藝 2022年秋季号をまだ読んでいる。クラリッセ・リスペクトルの福嶋伸洋訳『パンを分かち合う』、福嶋伸洋訳『神を赦す』を読んで、次は福島伸洋「言葉という官能 クラリッセ・リスペクトル論」と続く。
この作品を読むと、ほぼすべてが「神」についてである。自分を語っているのだが、自分を語るときは神を語ることが含まれている。自分の中や外に神があるからだ。
私はそういう意味で、神について語ったことはないし、いまこの文章でも正面から取り上げるわけではない。
昨日、「66 肉のないカレー」を書いて、文末で濁したことを書くつもりである。それも、今日、11月29日「いいニクの日」にちなんで。
クマやパンダはあまり肉を食わない
野性の動物のうち、肉食獣がいる一方、ほとんど肉を食わない獣もいる。いま町中に出没して大問題になったクマは、雑食だが、主に木の実だとか蜂の巣とかを食べているらしい。猪や鹿を襲って食べているわけではない。それで、あの巨体、自動車なみの走行スピード、高い木も簡単に登るのである。あの体を、ほとんど肉を食わずに維持している。
パンダもメインは笹だと聞く。ステーキもひき肉も食わない。
それでもいまの日本では「やっぱり焼き肉でしょ」「ハンバーグ!」「ステーキが食べたい」といった意思表示が日常的に行われ、別にニクの日じゃなくても肉を食っている。さらに、高齢者ほど肉を食べた方がいい説なども流布されて、それに宗教上の理由だとか別の理由で文句をつけている人たちは少ない。
ビーガンはここ数年、かなり意識されているが、まだ多数派ではないし、ビーガン派が、肉屋を襲撃した、といった話も聞かない。ビーガンは「肉を食うな!」とは主張せず、「私たちは食べません」と言っているだけだからだ。
人間はいま、肉を食べる派と食べない派がいる。食べる派も、「牛は食わない」「豚は食わない」など制限のかかっている人たちもいる。理由は「宗教上」と言われるのだが、宗教にはそのような肉食を巡る決まりが根本に存在している。
これは恐らく、私たちが最初に宗教に求めたのは「自分の死」であり「死んだら食われる」へのルールづくりだったからではないか。
埋葬時に墓石を置くのは、掘り返されて食われないためだろう。
古代、狩猟や採取で主に糊口を凌ぐ日々の中では、動物を食べる行為は「だって、動物だって動物を食べてるじゃん」と言いつつ「おれたちだって下手したら食われるし」と思い、徐々にルール化されて「こういう場合は食べてよし」となって、それが宗教の根になっていったのではないだろうか。
人類は哺乳類なので、同じ仲間の哺乳類を食べるのは、一種の共食いである。肉をおいしいと感じ、さまざまな肉料理を編み出してきた文化と、タブーを守る文化は常に並行して発展してきたはずで、ある段階で「自分で飼っている動物はいいよね」となる。家畜である。一方で、役に立つ家畜は食べてはいけない説も生まれる。
キリストの最後の晩餐では、子羊の肉が出ていると言う。これは生贄の象徴とも言われる。ヨーロッパを広く支配する文化の根にはこうした肉食と生贄についてのルールとしての宗教が存在している。
ペットの豚は食べないが、家畜の豚は食べる。そこに矛盾を感じないわけがないものの、それを語るたびに宗教を持ち出すことは、日本ではまずない。日本においての肉食を避ける気持ちは、仏教の影響だと言われている。
江戸時代、肉は薬として食べていたと言う。薬という「方便」である。
これは宗教(仏教)を科学(薬)が上回ったとも言えるし、この理屈はとても人々にとって都合がよかったのだろう。
競争と欲望
生き残り子孫を繁栄させるためには、競争に勝つしかない。それは生命の寿命との競争、病気との競争、自分たちを脅かす存在との競争に勝つことだった。そのために人類は肉食に踏み切ったに違いない。より多くの肉を確保するために、技術を磨いてマンモスを倒す。そんな絵を見た人もいるだろう。獣の革を衣服や靴に加工する。骨を武器に加工する。肉を保存する技術。焼いて食べる技術……。
そのうち、人間の構造そのものが、肉食主体に変化し、肉の栄養素が生きて行く上で不可欠になっていく。
「肉を食わないと勝てない」「肉を食わないと生き残れない」となっていく。肉食派が、肉を食わない派を戦争で打ち負かす光景が見えるようだ。
人がいまのような人になった段階では、多数の生贄を必要とした。その意味で、人々には生まれながらに負った罪があるのだ、と考えることもできる。生まれただけで罪なのか、とガッカリするわけだが、宗教はそんな人にも一応の「救い」を与えてくれるので、共同体を維持するために宗教はとても大切な存在になっていったに違いないし、一方で、無宗教なら「野蛮人」だし、自分たちと違う神を崇めている連中は「敵」となる。
野蛮人は滅ぼしてしまってもいいから、彼らは植民地政策を取った。宗教対立によって起こる戦争や紛争は現代でもまだ続いている。
日本に生まれてきた子どもたちに、「カレー好き」を強要し、「肉がいっぱい入ったカレー」を食べてもらうことは、共同体としての「肉を食う」通過儀礼となっているのかもしれない。
それは欧米に負けた昔の日本が「やっぱり肉を食わないと勝てない」と認識したからかもしれない。一種の強迫観念として少なくとも高度成長期には信奉されたのではないだろうか。その余韻が、カレーにはいまも残っているような気がする。
宗教色の少ない日本の現代においては(少なくとも戦後には)、カレーライスを食べることで、「肉を食う」罪を多くの人が負い、文化を継承することになった。少なくとも「なぜ肉を食べるか」「どんな肉は食べていいのか」といった点に疑問を持つ以前に、肉食化が進行することは、集団としてはとても都合のいいことであった。
なんてことを考えつつ、今日も肉を食べるのである。