69 コタツがない家
コタツが消えた日
ドラマ『コタツがない家』を楽しみに見ている。金子茂樹脚本。小池栄子主演。ダメ男一家という感じなのだが、正直、それほどドラマは盛り上がらない。起きる事件がどれもしょぼい。ただ、そのときどきの、俳優たちの演技、脚本の言葉のチョイスを楽しむ作品かもしれない。リアルなようでそうでもないのもむしろいい点だろう。
日本のホームドラマでコタツといえば、向田邦子『寺内貫太郎一家』だろう。中心にでーんとコタツのある家(基本的にはちゃぶ台だが)。そこでは、悠木千帆(樹木希林)分するおばあさんが、よくミカンを剥いていた(ような気がする)。冬、寒い外から帰ってきた家族は、とりあえずコタツに入って体を温める。そこで、会話が生じて、けっして仲がいいというわけではなくても、とりあえずいったんコタツに入って、そこからケンカをする。
萩本欽一の『欽ちゃんのどこまでやるの!』でも、中央にコタツがあって、欽ちゃんはそこに入っていて、その周辺を家族が飛び回る。
ちゃぶ台でもコタツでも、あるいはダイニングテーブルであってもいいのであるが、家の中にセンターがあって、そこに家族が集う。とりあえず、そこで会話をし、日常が回っていく。
私の育った家も、かつてはコタツがあった。それがいつ消えたのか、よくわからない。恐らく、石油ストーブによって消えたのだろう。
鶴見に住んでいた親戚(父の姉)の家は、長いこと、炭のコタツがあった。下手に足を突っ込んではいけない。そこはいわば囲炉裏のようなものなので、灰に足を突っ込むぐらいならいいが、炭だと火傷する。靴下が燃える。
家にコタツがあった頃、友だちがよく遊びに来ていて、友だちと中に潜り込んで、赤いヒーターを眺めた。なにがおもしろいのかわからないが、とにかく眺めていた。
さらにコタツは折り畳み式で脚についたネジで本体に取り付ける。その作業が好きで、やりたがった。
大人数のとき、コタツに入るポジションが重要になる。子どもたちは押し合いへし合いする。端っこに足の先だけ入れている人もいれば、下半身をすべて入れている人もいる。人数がいないときは、そのまま寝てしまう。
コタツがなくなって、なにかを失ったことは確かだろうけど。コタツがなければ、猫はコタツで丸くならない。
家庭は進歩しているのか?
ドラマ『コタツがない家』を見ていると、私たちの家庭は果たして進歩しているのか、と感じる。最近、たとえば働き方改革で、パート社員の年収の壁が話題になっている。政府はもっと働いて貰えるように支援しようとしている。家族のほとんどが、働いている状況で、家庭と呼べるものはなんだろう。家庭にいるのは、ダメ男ばかりなのか。働かない人のための安息の場所なのだろうか?
少なくともドラマでは小池栄子が、ある種のコタツになっている。家族たちはみな、彼女の温もりの中に足を突っ込んでグダグダしている。もしも彼女がそれを止めたらどうなるのだろう。
そういえば、ホームドラマは母が主役である。なぜなら、スポンサーが、家庭で使うもの中心だから、という身も蓋もない見方もできるけど、じゃあ、家庭のない家庭(と言うのもよくわからないが)においての主役は誰なのか。
いまでは、家庭の主役は社会からはみ出た人や社会へ出たくない人なのかもしれない。
ドラマ『コタツがない家』では、結婚という形態へも疑問を投げかける。家庭は、結婚ののちに生まれる、といった固定概念はすでにない。『きのう何食べた?』の主人公たちの家庭はどうだろう。男二人の共同生活。しかしそれは紛れもない家庭である。帰るべき場所である。
そして私はちょっと飛躍する。恐らく今後、私たちは「帰るべき場所」さえも、流動化していく時代を生きるのかもしれない、と。
実際、20世紀終盤は「流動化」の時代だった。ボーダレスとは流動化であり、派遣社員の台頭や副業も労働の流動化だろう。もちろん、一部、固定化への回帰もあるけれど、それは大きな流れにはならないかもしれない。
ある調査では世界の難民はおよそ9000万人規模と言う。いまは難民は例外的に見られているが、今後、もしかすると人々は主義主張や国境を越えて流動化するかもしれない。そんな世界を思ったりもする。