355 何かを信じられる生き方。信じられない生き方。
何を信じても自由
この記事を拝読した。
今日のこのnoteのタイトルは一昨日に決めていたものだけど、「推し」から話を始めよう(最近、数日先のタイトルを無責任に決めておく遊びをしている)。
誰もが心にアイドルとは限らないけれど一種の「推し」を持っている。それは「大切なもの」「大切な人」「大切な言葉」などのように、大切にしている対象だ。大切にする対象は、宗教っぽくなるけれどいわば「信じる」ことだ。信じられないものは大切ではない。
おカネが大切な人にとって、おカネは信じる対象となる。パートナーや友達が大切な人は、その人たちを信じている。裏切られたときのダメージはとても大きい。
その対象を外に求めなくてもいい。「自分を信じる」ことだってあるだろうし。
人の生き方は、信じるものとの出会いと別れと言える。必ず別れなければならないわけではない。形は変わってもいい。信じる相手が亡くなってしまったら、その形見をその代りとするように、信じ続けることは可能だ。多くの宗教はかなり昔に亡くなった人の言葉を信じている。
残念ながら裏切られたり、信じられなくなったときは、別の対象を見つけるまで苦しむこともあるだろう。こんな苦しみをもたらしたのは、過去の対象、いまはもう信じられない相手のせいだ。悩み恨み辛み。いろいろな気持ちが沸き起こる。それはいかにも「生きている」ことを実感させる。あー、こんなに悩むなんて、おれも生きているなあ。そう思う人はあまりいないかもしれないけど。
もちろん「信じない」を人生の中央に据えることもありだ。
なにを信じてもいい。だったら信じなくてもいい。
信じないと決める
特別、酷い目に遭ったわけではないのに、「何もかも信じられない!」と信じることをやめる人生もありだ。ドラマでは、そういう人に新たな信じられる人やものが現われてハッピーエンドっぽくなる。人生ではそうはいかないのでずっと「信じない」ままで終わっていく。
なにかを信じている人からすれば、「信じないままで一生過ごすなんて」と嘆くだろう。なにかを信じている人は、当然、ほかの人もそうに違いないと思う。もし信じるものがないなら「あなたも信じた方がいいよ」とかなりお節介ぎみに圧力をかけたりもする。そしてたまたま信じるものが現われたときにはもう有頂天で「だから言ったでしょ」となる。「よかったね、信じるものができて」となる。いや、そうだろうか? それはよかったのか? そこからまた信じたものに裏切られるスパイラルに入るのではないのか?
こうした一連そのものが嫌だから、信じないのだ、と主張すると「このへそ曲がり」と突き放される。
もっとも、なにも信じないで生きている人にも魅力はある。だから、勝手にその人は誰かに信じられている可能性はある。正面から「あなたを信じている」と言われなかったとしても、秘かに信じられているかもしれない。これは確かめようがない。
信じていない自分を信じてくれているかもしれないと想像することは、なかなか難しいことだ。自惚れというか自分を知らないと言われる。だって、おもしろいよ、こんなことを言うんだよ。「おれは誰も信じないし、神様もなにも信じない。だけど、必ずおれを信じてくれる人はいる」。
この言葉の矛盾は、「なにも信じない」と言いながら「必ずおれを信じてくれる人はいる」と信じているんだもの。そういうことも信じられないはずなのにね。なにも信じないんだから。
何も信じない自分を信じている。
このロジックからすると、なにも信じない人でも、なにかを信じてしまっているので、人は生きている限り、なにかを信じていると言い切ってしまえる。つまり、誰もがなにかを信じている。
うっかりすると信じるものが多すぎて困っているのかもしれない。詐欺事件のニュースを聞くたびに、人はすぐ信じるなあ、と感心するので、むしろ「なにも信じない」と言っているぐらいでちょうどいい。
結論として、信じない人生を信じることが正しい。
えーと、それでいいのかな?