65 思い出なのか創作なのか
いまなら書けるかもしれない「悲しき熱帯」の感想
『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)を読んだのは、2021年の秋から2022年の春にかけてだった。いつもなら、すぐに「読んだぞー」と言わんばかりに感想を書き付けるのに、なぜか、この本は書けなかった。
書かなかったのではなく、書けなかった。
それはこの本の持つ意味を、自分なりに咀嚼することができないままだったからだろう。そもそも読み始めたのは、誰もが名著というから、「一度は読んでおくか」的なことだったと思う。本を読み始める動機は私の場合、2つしかなく、1つは「必要だから」で、もう1つは「なんとなく」である。
で、圧倒的に「なんとなく」が多い。そもそも、必要に迫られて読む本なんて、ろくなものはないと自分では思っていて、むしろ「なんとなく」読むのが正解だと信じている。あるいはもう少しカッコつければ「潜在意識が欲した」と言ってもいいかもしれない。
なぜなら、必要で読んだ本についてはほとんど覚えていないのに、「なんとなく」読んだはずの本から、かなりの影響を与えられたり、偶然にもそれまでに「なんとなく」読んだ本とのつながりが発生し、「そういうことだったのか!」と発見したりすることが多いからだ。
『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)には、そういうつながり、いわばシナプスがうまく接続できないままになっていた。それが、いま読んでいる『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎)に触発されて、なんとなくつながってきた気がしたのだ。
自分のことを書くこと
『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎)で、「なかでも強い衝撃をうけた」本として、『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)と『幻のアフリカ』(ミシェル・レリス著)を挙げていた。「いずれも私を問い、私が出会った風景にたずね、私が所属する社会を容赦なく批判する」。
そのあとには、『がむしゃら1500キロ』(浮谷東次郎著)の話になっていくのだが、浮谷東次郎は23歳で事故死した伝説のレーシングドライバーである。1960年代の話だ。この人物が高い評価を受けているのは、本を出して自分を表現していたからだろう。レースの記録も大事だが、多くの人に影響を与えるには、本での表現も重要だった時代である。
現代では、スポーツ選手の本は多いものの、大多数は本人が書いたものではない。本を書いて有名になるのではなく、有名だから本になる、というパターンだ。その点で、浮谷東次郎は『がむしゃら1500キロ』を書くことで自分を表現したことからその後の人生が生まれていった。
そういう意味では、『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)も、研究のための旅を描いた「紀行文学」であると同時に、著者自身を旅や旅先で起きた出来事を通して表現した作品だと言えるだろう。
実際、『悲しき熱帯Ⅱ』の9部37章には彼が自分のことを振り返る印象的な描写がある。まるで私小説である。2部までとこの9部はみごとな旅のエッセーでもある。
かといって、いますぐ私なりの感想を書けるわけでもないので、ここでは「書けそうな気がした」で終わろうと思う。いずれ書くかもしれない。
すべて事実だったとしても
日記であるとか紀行とかは、基本的に「事実だけが書かれている」と読み手は考える。一方、『高丘親王航海記』(澁澤龍彦著)は小説である。高岳親王は歴史上の人物で実在したが、当時の唐へ渡り、さらに天竺を目指し行方不明となっている。従って、本人が書き残した紀行はない。澁澤龍彦はそれを自ら創り出して作品にした。
ところが、読み手である私は、『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)も『高丘親王航海記』(澁澤龍彦著)も同じレベルで読む。いや、私のレベルで読む。ほかに読みようがないからだ。学者でもなく、この2人の著者について大して詳しいことは知らないし、そもそもどちらの本も必要で読んだわけではなく「なんとなく」読んだのだから。
そうなると、そこに書かれていることが「思い出」であろうが「創作」であろうが、私にとってはあまり違いはない。800年代に生きた高岳親王、1930年代のブラジルを彷徨ったレヴィ・ストロース、1960年代から80年代にかけて活躍した澁澤龍彦ら、いずれも、私には遠く届かない場所や時代の話である。研究家であれば厳密に調べて事実を確定することだろうけど、私にはそれが事実かどうかはほとんど意味をなさない。
つまり、『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)をすべて小説として読むことだって可能なのだ。私としては、そうしたとしても、本の価値が下がることはない。
ということは、自分自身の1970年代や1980年代が、事実かどうかさえも、いまとなっては大して意味を持たない気がする。自分の「思い出」がフィクションだったとしても、それはそれで価値がある。
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