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389 創作 食事

食事

「肉汁がすごいのよ」
 ナイフをほどよく焦げた表層にあてて、その弾力を楽しむ。中は恐らくたっぷりと汁気が溜まっている。ある人から聞いたが、それは血ではなくたんぱく質だという。もちろんたんぱく質だけでは汁にはなりようがないので適度な水分を伴う。地下深くに溜まっている澄んだ水のように、それはいつか私の喉を潤すはずだ。
 少し力を入れてナイフを食い込ませると、全体を潰すように歪めながらも、とうとう刃先を受け入れてしまう。中へ数ミリ入ってしまえばもうこちらのものだ。
 熱い鉄板のせいで、猛烈な焦げた香りが鼻を突いていたのだが、沁み出した肉汁は水蒸気を盛大に上げながらむしろ爽やかなアロマを発した。
 ナイフが鉄板に到達する。断面を見る。牛と豚の合い挽き。そのびっしりと詰まった岩盤の間をたらたらと肉汁が湧き出してくる。レアではない。ちゃんと中まで火が通っている。私はレアは好きではない。ステーキもウエルダンがいい。ウエルダンでなおかつ柔らかく噛みしめられる肉が好きだ。
 この店の自慢のハンバーグはどうなのだ。
 もう猶予はできない。こんなに時間をかけている場合ではない。デミグラスソースにからめると、切り取った肉片を口に運ぶ。
 空中に飛散していた香りの発信元がいま口の中で溶けていく。喉から鼻孔へ。なにもかも征服したような壮大な気分。
「肉々しいでしょ」
 余計なことを言う。聞かなかったことにしよう。こちらは味わうことに集中するのだ。この店のもっとも売れているというこの一皿を、私なりにちゃんと味わって心の棚に収めておきたい。分類して整理して、いつでも取り出せるようにしておきたい。
 歯がなくてもほぐれていくだろう。同時に、歯があるからこそ感じられる適度に粗い肉片を弄ぶ。いつまでもそこにいていい。そう思っているくせに、喉が反射的に動いてしまい、半分ぐらいをいっきに飲み込んでしまう。ああ、もったいない。いやしかし。
 喉を落ちて行く牛と豚と脂と肉汁とデミグラスソースの混沌の中から、明瞭な馨香が立ちのぼった。ブラックペッパー、いやこれはローズマリー、パプリカだろうか。まさかシナモンではないよな。月桂樹やセロリの風味はソースから来るのかもしれない。鼻の粘膜は、無敵の外人部隊のようなこの連中に蹂躙されてしまい降参するしかない。
 最近、ある人から胃の粘膜にも味覚センサーがあると聞いた。そのせいだろうか。胃が喜んでいるような気がしてならない。
 気がついたら、皿の上にはなにも残っていない。付け合わせの野菜もきれいにない。
「えー、肉だけ食べちゃったの?」
 手つかずのライスが残っていた。

※この作品は、『小説作法ABC(新潮選書)』(島田雅彦)の第6章の「課題②読者がそれを読んでおいしそうだと感じる、料理の描写をする」に触発されて浮かんだ情景です。


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ほんまシュンジ
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