327 美味しさの天使と悪魔
格差の広がる食生活
いまの時代、健康についての情報はあふれ返っている。それについて教えてくれる人たちも群雄割拠。「あれがいい」「これはダメ」と情報はいろいろ入ってくる。
我が家には愛犬が存在している。愛犬氏は、家族に愛されている。だが、朝昼晩、同じものばかりを食べている。それがいいのか悪いのか、気にしている風ではない。食べられるか食べられないか、はあると思う。いままで食べていたものをそれほど欲しがらなくなることもある。とはいえ、基本的には出されたものを黙って食べている。
一方、人間はどうだろう。
「昼、なににするかな」「今週、ピンチなんでコンビニでちょっと買ってきます」「新しくできた焼き肉屋へ行ってみよう」「テレビで紹介されていたんだって、あの店。ランチに間に合うかな」「行列ができていたら諦めよう」「10分並べば確実に入れますよ」……。
食べ物については、情報を得るときの心理と、なにかを食べようとしているときの心理は乖離している。頭ではわかっている。「これは脂肪が多すぎる」「これは糖質のかたまりだ」「腸によくないけど」などなど、頭ではわかっていることを実行できない人の方が多いはずだ。
世の中の食事情は、私はかなり深刻なのではないかと思っている。貧富の差がこれだけはっきり出るものもない。毎食1000円かけられる人もいれば、500円以下の人もいる。どっちが健康かは別として、世界中から観光客が「日本食を食べたい!」とやって来ているのに、現実としては「昼は抜き」とか「カップ麺で」といった人もとても多い。
それでいながら、私たちは「美味しいか、そうでもないか」で食を判定し続けている。
体によくても悪くても美味しい
大人気のラーメン店で食べようとすれば行列に30分ほど並び1000円以上のメニューから選び、脂こってりの、あるいは塩分過多の、そのほかおおよそ健康志向からは遠い要素の多い品を摂取することになる。体にもタイパにも財布にも悪い。ただ病みつきになっている人にとっては「おれ、365日、ぜんぶラーメンでもいい」とか言ってしまう。
このほか偏食はさまざまあるので、数えていたらきりがないけれど、いわゆる「デカ盛り」なんて本当に大丈夫かと心配になる。しかもどうやらそれでも「美味しい」らしいのである。
人間の根本として、体にいいものを「美味しい」と感じるはずだ。いや、できればそうであって欲しい。「良薬は口に苦し」と言うけれど、美味しくあって欲しい。「だって体が求めているんだもん!」。
ところが、体が求める美味しいものを好きなだけ食べていたらどうなるかというと、たぶん死ぬ。もちろん、生まれてきた以上、人はいずれ死ぬのであるが、健康を害して死にたいと思う人はひとりもいないはずで、なにかを口にする以上、それは体が求めているものを優先したい。医者に止められたとしても、だ。「好きなものを食べて死にたい」。
貧しいので自由な食生活を維持できないときもあるだろう。だからといって余裕が出てきたら「食べ放題へGO!」と脂の海に飛び込む。「サプリを飲んでいるから平気」とか言って。
なにが言いたいかと言うと(長嶋一茂はよくこの言葉を使う=悪口ではない)、体に良いものだけが美味しいわけではなく、美味しいけど体によくなかったりもするよね、ってことだ。
人間は欲望のままに美味しいものを求めていくと、医食同源からとんでもなく遠く外れていってしまう可能性を秘めている。どうしてそんな危険な物質までもが「美味しい」のか。
私たちは自分の味覚と常に戦わなくては、健康を保てない。「大しておいしくないけど健康にいい食事」が世の中に存在している。健康にいい食事なら抜群に美味しいはずなのに。
もっとも、健康にいい食事が抜群に美味しくてたくさん食べてしまったら健康を損なうわけだから……(堂々巡り)。
今日も天使と悪魔が耳元で囁くのだ。「それ美味しいよね!」「それ体によくないよね!」。
どっちが天使で、どっちが悪魔なのだろう。