341 童心に返ることはできる?
帰還不能点をとっくに過ぎた
紹介をしている記事を紹介するのは反則っぽいけれどご容赦。
この記事でふと思ったことをコメントした。
今回タイトルにしようとして「童心に返る? 帰る?」と思ったが、どっちもありらしい。
もしも「帰る」としたとすれば、私はとっくに帰還不能点を過ぎている。そもそも童心に「帰る」なんてことができるのかも怪しいけれど。一方で「三つ子の魂百まで」とも言われている。これは本来その人に備わっている性格についての話なので、童心とはちょっと違うけれど。
とにかく、もしも「楽しさ」を失っていると感じた時、童心に返ることができれば、キャッキャ、キャッキャと無邪気に楽しめるようになるかもしれない。そういう世界を持っているとすれば、何歳になっても童心に返ることが可能だろう。厳密には童心ではないとしても、その延長線のどこかに潜り込めるかもしれない。あえて、ファミコン時代のゲームをやるとか、朝ドラ「虎と翼」ではないが家族でやっていたゲーム(ドラマでは麻雀)をやるといったことから、「あの頃」の感じを味わえるかもしれない。
私がお笑いを好きなのは、たぶん、そこにあるかもしれない。私の最初の「推し」(当時はこの言葉はない)は、コント55号だった。萩本欽一、坂上二郎のコンビによる笑いの爆発は、私と友達を魅了した。ドリフターズも好きだったがコント55号にはかなわない。なにしろたった2人でやるのだから。帰宅してご飯を食べる時間にコント55号の番組のあった頃は最高だった。一方、最初に気に入ったのがコントだったので、しだいにバラエティ化してコントをしなくなっていったのは残念だった。
「よーし、お笑いをやるぞ」(当時は「お笑い芸人」といった言葉もなかった。漫才師、落語家など。コント師という言葉もなかったと思う)と友人と練習をしたりした。残念ながら彼とは別の中学へ進学したので、それ以上は進展しなかった。お笑いの養成所もなかった時代で(あったとしても知らなかった)、どうすればその道へ行けるのかもわからなかった。大人に相談しても「バカなことを言ってないで、勉強しろ」と言われるぐらいである。
コサキン(関根勤と小堺一機)の登場には胸が熱くなった。欽ちゃんの弟子みたいになった人が実際に現われた。すごいことだと思った。
あー、確かにあの頃はおもしろかったな。落語も好きだったし、大喜利も好きだった。なんて思うことはある。だけど、童心に返ってしまうのは、少し怖いのである。
怖いので返らない
この「童心に返るのが怖い」とする気持ちは、今朝、唐突に湧いたものなので自分でもよくわからない。ひとつには、世間知らずでバカだった頃に戻ってどうするんだ、という怖さがある。なにも知らず知恵も足りない時期だからこそ、無心に楽しめたのかもしれないではないか。そこに戻ってどうするというのか。放って置いても加齢によって認知に問題が起こるっていうのに、だ。
もうひとつの怖さは、「おれの人生なんだった」的なことだろう。童心に返って、あの頃純粋になりたかった大人と現在を照らしたとき、そのギャップに愕然としてしまうかもしれない。どこで道を間違えたのか。いや、間違えたとは言いにくいのだ。いまだって自分なりにはとてもいい方向だと思っているし、現状肯定派なのに。その価値観が揺らぐかもしれない。
「そうだ、おれはやっぱりお笑いを目指すべきだったんだ、いまからでも遅くないぞ」的な話になっていくのは、正直、怖すぎる。小説としてはあるだろうし、いくつかのお笑いコンテストにはそれ系の高齢の人たちもいるらしいのでリアルな話でもあるけれど。それを否定はしない。否定なんてできるはずがない。だって自分だってそう思っていた時期があったんだから。がんばればコント55号になれるかもしれないと思っていたんだから。
童心で思っていたことが完全に正しいことだと、どうして言えるのか。童心なら純粋で美しいのか。いまから、この人生くたびれ期に突入している男が童心に戻ってどうしようっていうんだ。そんな恐怖である。
『何かが道をやってくる』(レイ・ブラッドベリ著 大久保康雄訳)をのんびり読んでいてまだ半分過ぎたぐらいだけど、この中にメリーゴーラウンドに乗ると年を取ったり若返るらしい話があって、ある女性は少女に戻されてしまい、ただただ泣いているのである。童心にはそんな不条理な部分がありそうで怖い。
※『何かが道をやってくる』に以前に触れた記事。