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114 年賀状の行方

メールに代えると言うけれど

 2024年の年賀状、4通来た。
 2017年の正月、つまり2016年の年末に「年賀状をやめる」と決めた。以来、こちらからは出さず、来たものに年賀状ではなくサンキューレター的なハガキで「やめましたので」と出すことにした。
 最近はよく「年賀状じまい」という言葉も聞く。
 7年たっても、まだ4通来ると言うべきか、とうとう4通まで減ったと言うべきか。
 その4通の中の1通は、小学校、中学校と一緒だった同級生からのもので、「今年で年賀状をやめるので、メールアドレスはこちら」みたいな文面だった。つまり、メールでは年賀状を送付するらしいのである。
 いやいや。やめるならパサッとやめていいような気もするけどね。
 確かに、「生存確認」の意味で年賀状はあってもいい。引越したり家族構成が変わっていたりといった変化を楽しむものかもしれないし、ずっと子どもの成長写真だったものが、ある時からペットの犬の写真になっていたりするとか、「なにかあったね」と感じるけれど、そういうことを追究したりはしない。そういうそこはかとなさがいいのかもしれない。
 一方で、私が辞めた理由のひとつとして、近親者の死亡によって「喪中」だから「今年は年賀状を送りません」というご案内を送付することが挙げられる。そもそも年賀状をやり取りしなければ、この喪中ハガキも不要なのであって、今後、いつ誰が死ぬかもわからないんだから、かえって面倒臭くないだろうか。
 年賀状じまいにも「作法」があるらしく、ネットで見ると文例などもあって、それはそれで面倒だ。「やめます」でいいだろうし、そもそも出さなければそれで終わりではないか?
 仕事の関係もあって、最盛期は200通ぐらい出していたこともあったが、それをやめてしまうと、とてもスッキリして気持ちがよかった。
 では、年賀状をメールでやろうというのは、いったい、どういう意味があるのだろう。

年賀状の最終回

メールの方がさらに面倒か?

 かつて、プリントゴッコという機械を使って、何十枚もの年賀状を作っていたことがあった。あれはインクを使うため、乾かす必要もあり、部屋中に年賀状を並べて乾かしてから「宛名書き」をするのである。
 そんなことを12月になると慌ててやっていたのだが、やがてパソコンが登場し、宛名書きを含めて「印刷」できるようになった。これは便利だ。しかしインク代がバカにならない。
 さらに、すべて外注できるようになった。オンラインで注文すると2週間ぐらいで手元に届く。この場合、宛名も頼めるのだが、なんとなく「宛名ぐらいは」と手書きをしていた。「ずいぶん、楽になった」と当時は思っていたのだが、もちろん、やめてしまえば、圧倒的に楽である。
 では、年賀状をメールでやり取りすれば、それはどうなのか?
「メールアドレスを教えてくれたのは、あなただけでした」と、今年、年賀状をやめてメールにする旨の年賀状をくれた同級生はメールをくれた。
 どうして、ほかの人は簡単にメールに移行しないのか。
 理由は明らかだ。
 メールのやり取りは、それなりに面倒なのである。
 みなさんは、いまどういうことにメールを使っていますか?
 少なくとも私の場合、仕事の依頼はメールで来る。ちゃんと保存できる書面として重要だ。契約書と同じパワーがある。口約束よりずっと安心だ。
 その後、原稿のやり取りなどもメールが多い。メールに原稿を添付するか、クラウド上にある原稿のダウンロード用URLを知らせるのである。
 そのほか請求書もメールだ。MisocaでつくったPDFの請求書をメールに添付して送付するのである。
 次に多いのは通販のやり取りだ。楽天やアマゾンで買い物をすると、たいがいメールでのやり取りとなる。商品が正常に到着するまで、このメールも大事である。
 あとは利用しているネットのサービス関連のお知らせが来る。私は大手新聞社のニュース速報もメールで受け取っている。
 いわば、メールは「オフィシャル」なやり取りなのである。
 そこに、年賀状はあまり関係がない気がしてしまう。
 本当に仲のよい者とは、LINEですませるし、ほかにSNS(フェイスブック、Xとか)でもやり取りできてしまうから、メールは使わない。
 年賀状も厄介だが、メールだってそれなりに厄介なのである。
 私の個人的な考えだが、「メールにするぐらいなら、やめてしまった方がよくない?」である。
 しかしまあ、同級生がそれで気が済むのであれば、メールだって別に拒絶することはないんだけども。「迷惑メール」に分類されたら可哀想な気はするけど。


 

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