321 書こうとしてふと気付いた
文章に違和感がある
ここまで書いて、「おや」となってしまった。
なにか長く続けていることについて書こうとしていた気がする。だけど、強烈な違和感に襲われて、書き続けることができなくなった。この話はいつかどこかで別のカタチで表現することになるかもしれないし、ならないかもしれない。アドリブだと、どうしてもこうしたことが起きる。
だいたい、自分で書いたものに違和感って、どういうこと?
たとえば、私は五年前、十年前に自分の書いたものを読んで「へえ、よく書けているな」と自画自賛することもある一方、「え? これおれが書いたの?」と首を傾げてしまうこともある。
なんだろうな、この違和感ってやつ。
恐らく、それはいまの自分にはなかったけど、その当時は自分の一部だったものが書いたのかもしれない。
このnoteを毎日書いて、321回目、スリー、ツー、ワンと原点に戻る感じのナンバーに誘われてしまったのだろうか。読み返すと、きっと同じことを何度も書いているだろう(いまは読み返さないけどね)。だいたい、そんなに書くネタがごろごろあるはずもないし。私はAIじゃないし。
よく、文章やテーマが降って来たり、何者かが憑依したりして猛烈に執筆を開始する人の話も聞く。あるいは、書き手の脳は作品の種が渦巻いている謎の空間に接続されていて、そこから拾ってきた種が突然芽を出し茎や根を伸ばし、花を咲かせて実を結ぶことがあるのだ、と説明をされたとしたら「そうなんだ、やっぱり!」と思ってしまう側面も確かにある。
書いているんじゃない、書かされているのだよ、とまことしやかに諭されたとして「そうですよね!」となってしまうかもしれない。
消えて行く思い
書こうとしたことを書かないで、ほかのことを書いているってことは、最初に書こうとしたことは、どこかへ消えて行くわけで、そこにあった「思い」は永遠に自分のところには戻って来ない気がする。もしもひょっこりと戻って来たとしても、それはすでに最初の顔とはまったく違うだろう。
人間って不思議だ。自分ってものはきっと間違いなくそこに自分として存在しているに違いないと思い込んでいるけれど、本当にそうなのかは誰にもわからない。1から100までが自分だと確信していたとして、38から52までは実は自分ではなかった、なんてことがあったとして、それに私は気付くことが出来るだろうか?
たぶん、できないと思う。自分の中に自分じゃないものが混ざっているのに気付くのは、それが消え去ったあとのことかもしれない。
「あいつ、なんだったんだろう」みたいな。
もちろん、自分の一部だった、と言い切れてしまう。それでいて、自分だった気もしない。
ドッペルゲンガーで、「あれは自分だ」と自分じゃない自分を見たとして、それが自分だとどうしてわかるのだろう。そもそもそれが自分だと、誰によってどうやって証明するのだろう。
それと似ていることとして、「こんなこと自分でやったのか?」と思うようなこともありそうだ。いや確かに自分でやったはず。それでいて当時の自分には出来たのに、いまの自分にはそれをどうやって再現すればいいのかさっぱりわからない。「オーパーツ」みたいなもの。
もしかすると、私がこうしてnoteを毎日書きはじめたのは、自分の中にいる自分じゃない何かを確認したかったのかもしれない。
だとすれば、いまこれを書いている自分は誰だろう。
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