290 テレビを見ない人たち
都知事選のあとで
どうもよくわからないんだけど、都知事選のあとのこと。テレビで分析をしている人たちの声の中に、「テレビを見ない人たち」というカテゴリーを語る人が増えた気がする。テレビだから、テレビを見ない人たちの悪口はいくらでも言えるってことなのか?
だけど、どんな番組でも、いまはネットで誰かが「まとめ」をしてくれている。番組内でおもしろい、あるいは論議を呼びそうな発言があれば、すかさず誰かがネットにあげてXのタイムラインに流れてくる。このおかげで、あるいはこのせいで、私たちは見ていないテレビでなにが起きているのか「知ったような顔」を出来る。
もちろん、切り取られているのでニュアンスはわからない。「本当にそんなこと言ったのか?」とこっちを少しくすぐる見出しになっているから、そこには作為も感じられる。
おまけに、本家のテレビ局そのものが「見逃したらTVerで」とやっていて、共犯関係になっている。
テレビ局はテレビを見ない人たちが大好きなのである。その人たちに向けてガンガン発信している。
たとえば今朝もこういう記事がXで流れてきた。
この記事を見ると、歌番組も大変そうだけど、アニメ番組だってかなり大変じゃないか。いや、この2つとも、テレビじゃないところで消費されている。サブスク、YouTubeなどだ。「など」と書いたのは、もしかすると著作権としてマズイものもあるかもしれないので、それも含めてのこと。
音楽を聴くならサブスクが便利だし、画像と楽しみたいならTikTokがあるだろう。アーティストたちは公式のYouTubeで情報を発信している。ファンはそれを見る。
こんな現象はいまに始まったことではない。もう10年ぐらいそう。つまりいま10歳の子は当然、生まれてからそうだし、20歳の人は物心ついた頃からそうだし、30歳の人だって社会人になってからはずっとそうだ。
自分の場をつくる努力
政治家たちが、「テレビを見ない人たち」を忘れているなんてことがあるだろうか? そして、自分の投票が伸びなかった理由をそこに求めるなんてことがあるのだろうか? その意見をいま大統領選で賑わっているアメリカの政治家にぶつけてみたらどうなのか。誰がそんな話を真に受ける?
別にネットを駆使したからって、それだけで投票数が大きく変化するなんてことはない。
問題は、その候補者自身が自分のフィールドとしてどういう場を築いてきたか、なのだ。テレビに相手にされない人はネットを使わざるを得ない。そしてネットを使い続けることによって、自分の場所を築く。しごく当然のことである。
これまでネットを自分の場と思わず、バカにしていた人が、「テレビを見ない人たちにはネットだ」と飛びついたからといって、その人の「場」がネット上に生まれるはずもない。そんな小手先の話ではない。
政治をやりたい人にとって、自分の場をどこに置くかは重要な要素になる。かつては経済界、労働組合、公務員(ざっくりしすぎているけど)、サラリーマン、宗教、地域といった人たちの集団に「場」を持ち、そこの代表のような顔をして政治をする(政治をさせていただく、だね)傾向もあった。いまもある。ゼロになっているわけじゃない。
ふらっと思いつきで政治家になる人はまずいない(と信じたい)。団体、仲間との活動を通して政治へ進むのがひとつの理想だろう。ところがこれを壊すのが「世襲」である。確かに世襲がすべて悪いわけではないだろう。ただ、悪いのである。なぜなら生まれてから政治家になると決まっている人なんてものが、はびこっていく世の中で、すばらしい政治になるなんてことは考えられないからだ。
極論として政治家は世襲のみとしたとき、どうなるか考えてみればいい。この人たちに時代の変化に応じた改革ができるだろうか。
そりゃ、ポピュリズムは批判されてもしょうがないけれど、じゃあ、多くの人の声を無視してもいいのか。どういう声なら採用して、どういう声は無視するのか。その判断をどのような価値基準でするのか。
残念ながら世襲以外の政治家になる方法がお粗末なままなので、いつまでたっても、いい候補者が育たないのではないだろうか。有権者はどうやって候補者を育てるのか。このあたりは今後、もっと話し合われてもいいような気もするんだけど、どうだろう。
しまった、政治の話はできるだけ避けたかったんだ。ただ言いたかったことは、政治とテレビを見ない人たちをリンクさせるなんて、いつの時代の話だよ、と言いたかっただけだ。Windows95から来年で30年なんだぜ。