50 目標の共有、仮想敵の存在が生むもの
思い切り嫌われそうな話
先日、「49 分かり合える前提と分かり合えない前提」では、個と個、個と集団といった間の中に生まれるものについて少し考えたのですが、こういうご意見をいただいた。
私は、そもそもチームビルディングといった考え方に懐疑的だ。個と個が集まって集団になって事に当たることは、人類が古代に獲物を獲ったり、田畑をつくる頃から生まれてきたものだから、生存のためには不可欠な資質だと思う。
そのためか、幼少期からの教育の主眼は、協調性、他者への配慮といったチーム内での「和」について学ぶことになっている。
それはそれで有効だけれど、一生涯、それでいいのかと言えば、現代社会ではそうもいかないだろう。
いま、心の問題では、利己であったり協調性の欠如だったり、あるいはそういうものを持ちながら、なぜか集団から外されてしまう、仲間に入れてもらえないといった事象について、話題になることが多い。心の問題は多岐にわたるので、浅はかな私のようなものがズカズカ踏み込んでもダメだけど、やはり「個」をどう扱うかをもう少し幅広く教育して欲しいと思う。
私がチームビルディングに懐疑的なのは、「どうしてチームでやらないといけないのか」という疑問に、納得できる答えがあまり見当たらないからだ。そもそもチームビルディングを求めているのは、経営者だったりして、それは自分の会社の利益を増やすために他ならない。
おれの財布を分厚くするために、おまえら結束しろよな、などと言う人はまあ、存在しないだろうけど、突き詰めるとそれに近いことが起きている。いま問題になっているホストクラブの集金システムなどは、まさにそれで、ここではチームが個を食い物にする構図になっている。
もちろん、そういう悪辣なことをするチームが問題なのは確かだが、食い物にされている「個」をどうやって救えるかも重要なテーマになる。しかし、世にたっぷり供給されているコンテンツの多くは、「友達をふやそう」とか「仲間とがんばろう」とか「チームでやれば怖くない」的なものであって、孤立した「個」によって生み出される新しい社会像は描かれていない。
目標とか仮想敵
戦争では、国と国、国と地域、地域と地域といった集団戦になるので、「結束」を重視する。敵がそこにいる。あるいは、いずれ敵になるであろう存在がそこにある。それに備えるためには「和を乱すな」ということだろう。だけど、そもそも戦争を防ぐためには、結束してはいけないのではないか?
チームづくりでは、「甲子園に行こう」とか「ワールドカップへ行こう」とか「大金持ちになろう」とか「シェア1位になろう」といった「目標」を共有することがひとつの方法になっている。
このため、結束して事に当たったとき、その結果が「個」にどのような影響を及ぼすのかは、ほとんど検討されない。
目標を達成できたら、自分はどうなるのか。それは自分にとって望ましい未来か。目標を達成できなかったときはどうだろう。あるいは道半ばで断念しなければならないときは?
例えば、甲子園出場を目標として野球に打ち込んだ人が、甲子園に行けたとする。目標を達成しておめでとう、だけど、それが個人にどのような影響を及ぼすかまでは、誰も感心を持っていない。最後には「個」に戻るのに、目標を達成するために一定期間「個」に目をつぶるため、正しく対応できなくなっても不思議ではない。まして、目標が達成できなかったらどうなるのか。残念な結果を受け止めるのも「個」である。
個人のことは個人で勝手にすればいい
目的を達成あるいは未達で解散したチームには責任者は存在せず、その後のメンバーのケアをする者はいない。「個人のことは個人で勝手にすればいい」となる。戦争でもそうだ。休戦あるいは停戦、あるいは終戦あるいは敗戦か勝利かによって戦争は終わる。
そのときも、「個人のことは個人で勝手にすればいい」状態になるのであるから、やはり一番大切なのは「個」のありようだろう。
正直な話、私は私という「個」を完全掌握しているとは言えない。
いまこれを書いていながらも、「これ、おれの本音かな」と懐疑的で「なにかの影響で書かされているかもしれない」とか妄想するけれど、実際、こうした文章のほとんどは、これまで見聞きした情報を理解したり曲解したりした上に成り立っているものなので、本当に自分で産みだしたものかどうかさえ、実はよくわからないのである。
いまもなお、誰かのリーダーシップについて懐疑的な話が世の中に蔓延しているけれど、そもそも私たちはリーターシップを求めているのだろうか? まずはそこから話を始めた方がいい気もするのである。
そのチームは必要か? そこにリーダーは必要か?
いまの時代は、必ずしもYESではないだろうと私は考えている。