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222 ポール・オースターの逝去

多くの本の著者はすでに亡くなっている

 身も蓋もない話だが、私の部屋に、そしてスマホの中に所蔵されている本の大半は、すでに亡くなった著者によるものだ。だから、同時代的に自分の人生と少しでも重なっている作家は貴重とも言える。もちろん、存命の作家はたくさんいるけれど、自分が気に入った作品の著者となると、そう多くはない。
 そのひとり、ポール・オースターが亡くなった。別の記事で、これまで読んだオースターの作品については触れている

 この記事は、ブログを転々としたこともあって、いまは写真が表示されない。復旧させる気持ちはゼロではないけれど、いまはそういうことをしたい気分ではない。そこで、元のブログ記事を眺めながら、かいつまんで、ここでオースター作品について触れてみよう。
 結局は、最初に読んだ『ガラスの街』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)がいまも尾を引いている。2011年に読んでいて、最後に読んだオースター作品は『スクイズ・プレー』(ポール・ベンジャミン著、田口俊樹訳)という、別名義で書かれた作品だった。『ガラスの街』はまるで余計なものをすべて剥ぎ取ってしまったスケルトンのハードボイルド小説のようで、タランティーノの映画を思わせる抽象化によってほかでは味わえない世界になっている。一方、『スクイズ・プレー』は典型的なハードボイルドなミステリ小説で、見事なまでに王道を行く。
 最初に抽象化された世界をいきなり見せられたものの、著者はちゃんと手順を踏んでいたのだ。最初は伝統に則ってなおかつおもしろい作品として『スクイズ・プレー』を書きながら、その道へ行く気はなかったのか別名義で発表し、やっぱり著者自身がもっともしっくりくる世界として『ガラスの街』を世に問うたのだ、と私は勝手に推測している。
 なにしろ、私は好きな作品についてはそれなりに溺れるのだが、著者についての評伝やインタビューなどをあまり読まないので、実際にどうだったのか、あるいはこの著者はどんな人だったのかを、ほとんど知らない。

読めるところまで読もう

 気に入ったので『幽霊たち』 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)、『鍵のかかった部屋』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)と続けて「ニューヨーク三部作」と呼ばれる三編を読んだ。この段階で「オースターは読めるところまで読んでいこう」と決意した。
 『孤独の発明』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)、『最後の物たちの国で』 (ポール・オースター著、柴田 元幸訳)、そして詩集の『消失―ポール・オースター詩集』(飯野友幸訳)まで、そこにあるのは消えていくこと、喪失、消失といったテーマが読む者に提示されていた。これは、最初に洗礼を受けた三部作の延長として、受け入れやすい世界だった。
 それが大きく転換するのは、『ムーン・パレス』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)だった。ここにあるのは多層的なストーリーたちで、饒舌な語り手たちによる物語だった。ここにはいろいろなものが溢れかえっている。消えてゼロになるような世界ではなく、つぎつぎと新しい色や形の花が咲き乱れる歌壇のようだ。
 『偶然の音楽』(ポール・オースター 著、柴田元幸訳)も、うねるよな物語によって織り上げた絵巻のよう。
 それから、『リヴァイアサン』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)、『ミスター・ヴァーティゴ』 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)、『空腹の技法』 (ポール・オースター著、柴田元幸、畔柳和代訳)、犬好きなら読んでおきたい『ティンブクトゥ』 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)と読んでいった。
 そこで止まっている。映画も見ていない。
 これが再開するのかどうかは私にもわからない。残念なことに、こうした本のほとんどがいま手元にはない。図書館で借りた本もあるし、引っ越し時に売却した本もある。引っ越したとき段ボールの中に入れて、いまもそこに入ったままの本もあるかもしれないが、いまはそれを探す勇気はない。
 少なくとも3.11の年からしばらく夢中になっていたのには、私なりの理由もありそうだけれど、そこもいまはほじくらない。ポール・オースターへの敬意と感謝をこめて「安らかに」と祈るのみだ。
 なお、オースターについては182でも少し触れていた。


はてさて。


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